煩悩(4)

*仏教と科学での「欲望」の捉え方、語り方がどれ程違うかを確認するのが今回の目的です。コントラストを強調し過ぎたかも知れませんが、同じ語彙が文脈が異なると「同床異夢」で、学習される欲望内容と生得的な欲望装置の違いが目立つことになります。

 釈迦によれば、人生は苦しみの連続で、心休まるときがない。これが苦諦(くたい)。人生が苦であることは真理(=諦)であるという訳です。では、なぜ人生は苦なのか。病気の苦しみにはその原因が必ずあるように、人生にもそれが苦である原因があります。原因を突き止めないと、その病気を治すことができないように、人生が苦である原因を正しく知らないことには安心や満足を得ることは不可能です。
 では、苦しみの原因は仏教ではどのように捉えられているのでしょうか。それは無明(=煩悩)だと考えられてきました。煩悩は私たち人間を苦しませ、悩ませるものであり、全部で108つあります。特に恐ろしい三つの煩悩が「三毒」です。三毒とは、

貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)

の三つです。貪とは貪欲(とんよく)のことであり、貪欲は限りのない欲の心のことです。欲の心が邪魔されると出てくるのが瞋であり、瞋は瞋恚(しんい、=怒りの心)です。そして自分より強い人、立場の高い人など、怒りを表に出せない相手に対しては癡が起きます。癡とは愚痴のことであり、愚痴は嫉妬心や恨みの心のことです。私たちは満たしても満たしきれない欲や、それが妨げられて出てくる恐ろしい怒り、そして醜い嫉妬心や恨みの心などの愚痴で苦しんでいます。それでは心のもつ三毒に悩まされることなく、幸せに生きるにはどうすればいいのでしょうか。
 いっそ三毒をなくすことができれば、もう悩むことはないでしょう。財欲がなくなればお金の悩みも消えるでしょうし、名誉欲がなくなれば他人からの評価に悩まされることはなくなるでしょう。色欲がなくなれば男女間のトラブルもなくなり、睡眠欲がなくなれば眠られなくてイライラすることもなくなるのではないでしょうか?欲がなくなれば、その欲が邪魔されて腹が立つこともなくなり、また嫉妬心や恨みの心で苦しむこともなくなるはずです。そのように三毒がなくなれば、あらゆる悩みが解消され、とても生きやすくなると思います。
 では、三毒は綺麗サッパリなくすことができるかというと、残念ながらなくすことはできません。仏教では人間のことを「煩悩具足」と言います。煩悩具足とは、煩悩の塊ということです。人間は煩悩のみでできているということです。喩えて言えば、雪だるまは雪の塊であり、雪からできています。雪だるまから雪を取ってしまえば、雪だるまではなくなってしまいます。それと同様に、人間から煩悩を取ってしまえば、人間ではなくなるということです。人間から煩悩がなくなれば、そもそも生きていけなくなります。食欲がなくなれば餓死しますし、睡眠欲がなくなっても生きていけなくなります。財欲や名誉欲がなくなっても社会生活が平和に営めなくなってしまいます。三毒を含め、人間は煩悩から離れることはできないのです。
 さて、「生死即涅槃」とは、生死がそのまま涅槃であり、両者が一体不二の関係にあることをいいます。煩悩を原因として生死の結果(苦)を招き、菩提によって涅槃の証果に至ります。仏教では、生まれては死に、死んでは生まれるという生死輪廻の世界を苦しみの世界としています。四苦とは生・老・病・死のことで、この四苦に、愛別離苦愛する人と別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨憎の相手と会う苦しみ)、求不得苦(求めるものを得られない苦しみ)、五陰盛苦(五陰が盛んになることによって起こる苦しみ)の四苦を合わせたものを八苦といいます。衆生は、煩悩(欲望)によって業をつくり、その業によって四苦八苦等の様々な苦しみを感じ、その生死の苦しみは輪廻して永遠に続くのです。一方、涅槃は悟りの境界です。生死の苦しみは種々の煩悩が原因で起こるのですが、仏教ではその煩悩を断ずることによって生死の苦しみから脱却し、涅槃という悟りの境界へ至るとされています。
 これまでの記述は、仏教が煩悩(欲望)を無化しようとしてきたことを物語っています。「煩悩を無化し、悟りに至り、往生する」ことが大乗仏教の基本図式にさえなっているのですが、欲望を秩序づけ、統一するキリスト教とは随分違っています。欲望の現象を見直すなら、インド思想の欲望とギリシャ思想の欲望とが異なり、さらにキリスト教と仏教での欲望の扱いも異なっていることがすぐにわかります。「欲望」は意志と本能の間にあるものとして考えられてきました。浄土教では欲望が中心的な地位を占め、阿弥陀仏の本願や信心における欲生心の中核にあります。「欲望のままに救われる」のが浄土教の発想です。無欲は理想的でも、その実現には意志や欲望が必要である、という一種のジレンマが、仏教が欲望、煩悩を否定する前に立ちはだかっています。

 宗教や地域、時代が異なると、意識、信念、意志、欲望等の心の働きについての考えが異なるのは当たり前のことでしょうか、それともおかしなことでしょうか。さらに、煩悩や欲望を克服するための欲望は否定されるべきなのでしょうか、それとも許されるのでしょうか。このような問いを意識しながら、科学的な分脈での本能、欲求についての知見の一部をまとめてみましょう。それがこれまでの話と如何に異なるか実感して下さい。

(本能の起源)
 生物個体は「自己の保存能力」と「種の保存能力」をもち、これらの能力は個体と種の存続に不可欠である。また、個体の活動にはエネルギーが必要で、自らエネルギーを合成できない多細胞の動物は、それを植物や藻類、他の動物を摂取することによって供給している。種の保存の方法は様々でも、成熟した個体によって行われる。摂餌や摂食によるエネルギーの獲得は、成長し、成熟して子孫を残すための行動である。本能的な欲求に動機づけられた摂食や生殖の行動の遺伝子プログラムは、生活史の特定の段階で発現する。
 本能の起源を明らかにするには、現生生物の間での本能行動の遺伝子プログラムに関わる情報を系統発生的に比較することが不可欠。動物の中枢神経系は感覚刺激を受容し処理する感覚系、筋肉に適切な時系列で指令を送り、運動を生み出す運動系、そして感覚系と運動系をつなぐ統合系からなる。統合系は入力情報を統合し、解釈し、どんな反応をすべきか判断している。本能行動の発現には本能的な欲求による動機づけが必要だが、それを行っている動機づけ系は統合系の主要な部分である。脊椎動物の動機づけ系の中心は視床下部脊椎動物の脳は複雑な構造をもつように進化し、高次機能を営む大脳が生まれた。本能行動の中枢は脳の領域のなかで系統発生的に最も古い視床下部にある。
 では、本能的な行動を制御するシステムはどのように進化してきたのか。単細胞の原生生物のなかには、通常は分裂による無性生殖だが、食糧不足などのストレスによって有性生殖するものがいる。ゾウリムシがその例で、その生活史に沿った行動の変化から本能の起源を垣間見ることができる。ゾウリムシには普通大小二つの核がある。大核は遺伝情報の発現に、小核は遺伝情報の伝達に関わっている。餌が豊富な時は、前後に二分裂し、無性生殖によって増えていく。十分に成長した個体は大核と小核がともに分裂し、体の前半部と後半部に分かれていき、2匹の小さなゾウリムシとなる。しかし、餌が欠乏したり、個体が性的に成熟したりすると、「接合型」が一致する2個体の間で、有性生殖(接合)が起きる。このようなゾウリムシの生活史は、無性生殖期に見られる摂餌相から二分裂相に入るところ、および無性生殖期の摂餌相から有性生殖期に入るところが、多細胞動物の成長期から生殖期への転換に対応している。
 古くからのモデル動物である線虫は、左右相称で体節をもたない線形動物門の動物。脱皮により成長する。雌雄同体の個体と雄がいて、前者は個体内で自家受精し、後者は雌雄同体の個体と交尾して子孫を残す。体長1mmの線虫は孵化すると約3日で成虫となり、生殖を始める。雌雄同体の個体の産卵行動には活動期と休止期があるが、その周期は不規則。休止期から活動期への移行が2対の同定運動ニューロンが放出するセロトニンによって誘起される。次いで、同じニューロンが放出するアセチルコリンによって産卵行動そのものが引き起こされる。ここで興味深いのは、放出している運動ニューロンこそ違うが、セロトニンアセチルコリンを介して摂餌行動の制御にも携わっていることである。このセロトニンによる産卵と摂餌の誘起は、餌のある状態が産卵行動と摂餌行動を同時に高めるということと矛盾していない。一方、雌雄同体の個体で見られた産卵と摂餌の同時的な誘起に対して、雄が餌の探索よりも、異性である雌雄同体の個体のファロモンを介した探索を優先すると報告されている。雄の線虫が見せた生殖行動が摂餌行動に優先するという結果は、有性生殖を行う動物に広く見られる現象なのかも知れない。
 単細胞性の原生動物であるゾウリムシ、あるいは302個のニューロンしかない神経系をもつ線虫といった単純な体制の動物では、摂食行動および性的な生殖行動という本能行動が見られるとともに、それらの間にどちらかと言えば相反的な関係があることがわかる。小型のミジンコを餌としている刺胞動物ヒドラでは飽食により摂食の抑制が起こる。一方、ヒドラに餌を与えない絶食時間を長くすると、餌がもつ化学物質(=グルタチオン)に対する触手の感度が高まる。ヒドラに限らず、多くの動物で飽食は摂食を抑制するが、食物連鎖の上位にいる動物では空腹感が餌を探すための索餌行動を開始させる引き金になっている。これらの動物でも、生殖行動は基本的に雄の個体と雌の個体による両性生殖であるが、しばしば摂食行動とは相反的である。生態系の上位で繁栄しているこれらの動物は、発達した左右相称の神経系と内分泌系をもつ群、すなわち軟体動物、節足動物および脊椎動物であるが、無脊椎動物の頂点に位置する軟体動物および節足動物脊椎動物では神経系の構造に違いがある。違いの一つはその大きさで、脳の細胞数がモデル動物のショウジョウバエでは10万なのに対し、ヒトの脳(大脳皮質)では100億。哺乳類の巨大脳(megalobrain)、節足動物の微小脳(microbrain)と呼ばれている。
 当然だが、小さくて短命な昆虫と大きくて長命な脊椎動物、とくに哺乳類との間には共通性だけではなく、繁殖戦略に見られるような大きな違いがある。要点は微小脳では末梢の感覚ニューロンで情報を高度に選別するのに対し、巨大脳では情報をできるだけ脳に集め精密に処理することである。また、微小脳では単一ニューロンが情報処理上の機能単位として働くことが多いが、巨大脳ではニューロン集団が機能単位となっている。情報処理系の並列性と階層性についての組み立て方にも違いがあり、巨大脳の方が階層性が深いという。運動系にも違いがあり、動きの速さが重要な昆虫では少数のニューロンを使って、生得的に準備されている運動プログラムを素早く読み出すが、巨大脳では多くのニューロンが作り出すベクトルにより、きめ細かな運動制御を行っている。
 本能行動の制御には神経系内にある三つの要素、つまり感覚系、運動系、そして統合系(動機づけ系を含む)が関わっている、脊椎動物では脳内の間脳・視床下部という部分が統合系としての重要な機能をもち、摂食行動、飲水行動、生殖行動などの本能行動の中枢となっている。視床下部が個体として生存し、子孫を残すための本能行動の中枢であるということは、この部位が系統進化学的にも神経発生学的にも脊椎動物型の脳の中で始めに分化した場所であることを示唆している。最も原始的な現生の脊索動物ナメクジウオ脊椎動物型の中腔脳をもつが、幾つかの点で脊椎動物視床下部とよく似ている。脊椎動物の進化の間に脳の形は大きく変わったが、形が大きく変わったのは大脳であり、間脳・中脳・ 菱脳(後脳+延髄)からなる広義の脳幹の構造は両性類と共有で、脊椎動物の間であまり変わっていない。本能行動の中枢である視床下部の働きの本質が大脳の未発達な両生類と共通しているのである。

 産業革命、資本主義は私たちの欲望を強烈に刺激し、それに個人主義がさらに油を注ぎ、欲望は加速する一方でした。欲望にとってはそれらすべてが麻薬となって、人は欲望の塊として生きることになります。そんな目立たない一例が印刷術あるいは版画。大量印刷は欲望を限りなく刺激し、際限のない好奇心を呼び起こします。情報はSNSを通じて拡散し、大量消費をさらに掻き立てます。誰かの欲望は別の誰かの別の欲望を生み出し、それがあっという間に伝染し、拡散していきます。
 学習される欲望の具体的な内容と生得的な欲望装置はこれまでの説明からまるで異なる印象を与えるものになっていることが実感できた筈です。さらに、欲望を刺激するルールが変わることはパラダイムシフトに似ていて、私たちの社会を動転させてしまいます。いつ頃からか、私たちは欲望を満たすために対価を払って交換するというシステムを編み出しました。交換システムの成立は欲望を飛躍的に増大させました。物々交換、貨幣による交換、より進んだ情報による交換と進み、その過程で私たちの欲望は異常なほどに亢進していったのです。
 宗教的であれ、倫理的であれ、知恵は通常臆病で慎重なもの。伝統や常識に従うのが常で、新機軸を打ち出すのは知恵と分別ではなく、知識と大胆な勇気。知識は革新的ですが、知恵は保守的。知恵の代表となれば、儒学や仏教、さらには養生訓などが思い浮かびます。その一例が仏教の「煩悩」への理解の仕方。欲望は重要な本能の一つですが、欲望は学習によって希望や意欲になる一方、悩ましい煩悩にもつながっています。私たちの本能は意志や意欲という肯定的な側面と煩悩や強欲という否定的な側面を併せ持っています。