煩悩(1)

 聖書やコーランは唯一無二の大ベストセラーだが、仏教の経典は一つどころか、多数あり、しっかり分類しないと経典の森の中で迷子になること間違いなしである。
 経典は内容の違いから三つに分類され、三蔵と呼ばれている。三蔵とは、
(1)釈迦の教えをまとめた経、
(2)仏教徒の行動規範(戒律)である律、
(3)経や律を研究し、注釈した論、
である。また、経典は教義の違いから次の二つに分類できる。
上座部経典:釈迦が直接弟子に説いた教えをまとめたもので、原始仏教の経典。『阿含経
大乗経典:大衆に釈迦の教えを広めるための大乗仏教の経典。『般若心経』、『法華経』、『華厳経』など
(さらに、細かく分けると、密教経典:密教の奥義を説いた大乗経典。『大日経』、「金剛頂経』など)
 大乗仏典がどのような内容か垣間見てみよう(上座部の『阿含経』は数千におよぶ小乗仏教の経典の総称)。『般若心経』(天台宗真言宗、浄土宗、禅宗)の正式名は『摩訶般若波羅蜜多心経』または『般若波羅蜜多心経』。「般若」とは智慧を、「波羅蜜多」とは「智慧で彼岸へ渡る(=さとりをひらく)」ことを意味し、「すべての人々を彼岸へ渡らせる」と主張する大乗仏教の基本的な考えを初めて述べた経典である。日本で一般的にいう「般若心経」は玄奘訳のもので、玄奘が訳した全600巻から成る『大般若経』の中から、そのエッセンスを簡潔にまとめたもの。609年(推古天皇)にもたらされたサンスクリット語の般若心経が日本最古のもので、法隆寺に残っている。「色即是空、空即是色」の一節は有名で、深遠なる「空」の境地を説いたものである。それまで上座部仏教がこだわって説いてきた煩悩克服の教えに対して、「一切こだわるな」と教えている。煩悩を克服しようと執着する心を捨て、こだわりのない心を持つなら、おのずと「空」の境地が開けてくる、それこそが真理であり、一切の苦しみから解き放たれる道だと教えている。上座部仏教の教えの対極にあって、しかも出家した僧だけでなく、全ての人々に対して説かれた革新的な経典で、大乗仏教の根本経典である。
 「般若」は古代インド語の「パーニャ」、智慧という意味で、「心経」はエッセンスだから、智慧の神髄、究極の智慧がこのお経の中に詰め込まれている。「空」は変化のこと。空を見上げていると、天気が目まぐるしく変わるのがわかる。天変地異が続き、絶えず変化することが「空」。どんなに美しい人でも50年も経てば老人に変貌し、その先には死が待ち構えている。そうした絶対的な変化が「空」である。「空」とはヘラクレイトスの「万物流転」と同じ。世界、宇宙とは「万物流転=空」を本質としている。それが『般若心経』の中で「色即是空」と表現されている。釈迦が「色即是空」に込めた智慧は、「この世のすべては束の間の存在に過ぎず、それに執着したりこだわるのは、もうやめよう」という教えだった。つまり、過去への執着から自由になり、あるがままに受け入れたとき、人は平安な心を手に入れ、幸せになれる。
 『般若心経』の「色即是空」の後には、「空即是色」の4文字が続く。万物は変化するだけでなく、変化の結果として再生する。生きものはどんどんと亡くなっていき、いずれ姿を消す。これは「色即是空」。しかし、そのうちまた新たな命が誕生し、地上に溢れる。これが「空即是色」。「空即是色」にも釈迦の教えが込められている。万物は再生するが、生まれてくるのはいいことばかりではなく、地震津波など不幸で、歓迎したくないことも再生する。それを人間の力で押しとどめることはできない。将来のすべてを人間がコントロールするのは不可能。そこから将来を怖がって前に進もうとしない人が出てくる。釈迦はそういう人に対して、これから起こることを心配しても仕方なく、自分にできる限りの努力をすれば、その後はもう天に任せて思い悩むべきでないと説いた。
 色即是空が「過去を受け入れる」なら、空即是色は「未来を受け入れる」こと。こだわりを捨ててこの2つの境地に達することが「さとり」である。
 『法華経』(天台宗日蓮宗)も代表的な大乗経典で、正式名は『妙法蓮華経』、日本で最初にこれを講じたのが聖徳太子。漢訳では、鳩摩羅什の訳のものが最も多く用いられた。全八巻二十八品からなり、大きく分けて「迹門」と「本門」の二つに分けられ、さらに序文・正宗分・流通分の三部に分けて解釈されることから二門六段と言う。「迹門」は釈迦が久遠(永遠不滅)の仏であるという実体を明らかにする以前の教えで、「本門」は釈迦が久遠の仏であることを教え、この教えを信じ、実践する者に至福への道が明らかにされている。
 『無量寿経』(浄土三部経、浄土宗、浄土真宗時宗)は序・本論・結語の三部四章からなり、経が長いことから「大経」とも呼ばれる。法蔵菩薩が一切衆生を救済するため仏陀となることを志し、その本願(誓い)として四十八願をたてる。長い修行をへて、すべての誓願を成就させた法蔵菩薩阿弥陀如来となり、荘厳なる西方極楽浄土が出現する。そして極楽往生を願う人々に称名念仏を説いている。
 『観無量寿経』(浄土三部経、浄土宗、浄土真宗時宗天台宗)は略して「観経」とも呼ばれる。ドラマチックな王位継承をめぐる骨肉の争いをベースにして、極楽往生するための具体的、実践的な方法論を詳しく説いている。
阿弥陀経』(浄土三部経、浄土宗、浄土真宗時宗)は浄土三部教のなかでもっとも短いため、「小無量寿経」「小経」とも呼ばれる。現在、浄土系各宗派の法事などでよく読誦される経典。コンパクトに、極楽浄土の荘厳な様子や、極楽浄土へ往生する方法を説いている。
 浄土真宗で大事な経典は上で述べた『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の三つで、これが浄土三部経浄土真宗ではこの三つを大切にし、『般若心経』や『観音経』などを読んだり書写したりすることはない。浄土三部経には、阿弥陀仏のことが集中的に説かれている。親鸞は、「それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」(『教行信証』)と述べ、真実の経(釈尊の本心が説かれている経典)は『大無量寿経』ただ一つと断言している。
 『大無量寿経』は、略して「大経」ともいわれ、釈迦はこの経の初めに、「如来、世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」と言い、「私がこの世に生まれ出た目的は、一切の人々を絶対の幸福に導く、この経を説くためであったのだ」と宣言している。これを出世本懐経といいます。出世本懐経とは、真実の経と同じ意味で、釈尊の本心が説かれている経典ということから、『大無量寿経』以外のすべての経典は、方便のお経ということになる。さらに『大無量寿経』の終わりには、「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、特にこの経を留めて止住すること百歳せん」と、真実の経であることの、とどめを刺す。これは、「やがて、『法華経』など一切の経典が滅尽する、末法・法滅の時機が到来するが、その時代になっても、この『大無量寿経』だけは永遠に残り、すべての人々を絶対の幸福に導くであろう」と説く。
 『観無量寿経』は、略して「観経」ともいわれる。「王舎城の悲劇」で有名な、韋提希夫人への説法が記されている。 釈尊在世当時、マガダ国の王・ビンバシャラ王の妃・韋提希(イダイケ)夫人は、わが子・阿闍世(アジャセ)によって、七重の牢に閉じ込められる。この時釈尊は、「このたびは特に大事な話をしよう」と言われ、大衆を前に霊鷲山で『法華経』の説法をしていた。しかし、牢獄で苦しむ韋提希夫人の救いを求める声に、『法華経』の説法を中断して、王宮に降臨され、弥陀の救いを説いた。これは、本師本仏の弥陀の本願こそ、釈迦一代の仏教の目的であることを示している。
 『大無量寿経』を「大経」というのに対して、『阿弥陀経』は「小経」。ここには阿弥陀仏と極楽浄土の様子が詳しく説かれている。この経の眼目は、東西南北上下(六方)の大宇宙の諸仏方が異口同音に、「弥陀の本願まこと」を証明されている「六方諸仏の証誠」にある。普通のお経は、だれかの質問に答える形で説かれているが、『阿弥陀経』だけは「無問自説の経」といわれ、釈尊の問わず語りの説法である。
 ざっと(大乗仏教、特に浄土真宗の)主要なお経をみてきたが、実に様々。教派によって大切と考える経典が違うのも仏教独特のもの。何より上座部仏教大乗仏教の違いは大きい。これらの経典は「たかが方便、されど方便」を見事に表している。経典を通じた信仰は結局のところ、文献の注釈が大きな役割を占めている。確かに、実験や観察に対応するのが修行だとすれば、テキストと実践が理論と実験に対応していることがわかる。しかし、そこには大きな違いがある。理論の主張が正しいかどうかを調べるのが実験や観察なのだが、修行は経典の真偽を確かめるためのものではない。経典の主張を実行するのが修行である。さらに、経典についての解釈や批判は決して多いとは言えない。特に、乱立するとも言える大乗経典の比較検討はあるにしろ、経典の内容が真か偽かの検討は実際にはやりにくい(浄土真宗では異安心と咎められる場合が何度もあった)。
 大乗経典の特徴は煩悩にある。煩悩の詳しい分類と分析は聖書にはないものである。経典における煩悩概念が常識として使われ、人生観や世界観を生み出す要素になってきた。経典が描く存在論的な主張は荒唐無稽だと退けても、心に関する認識論的な記述は今でも常識として通用しているものが多い。それが「煩悩」である。
 煩悩は仏教の経典で述べられた概念だが、それが常識化し、日常生活で使われてきた。常識としての煩悩は仏教だけでなく、他の意味(感性、情動、情緒、欲望等の語彙が示すもの)も加わり、今では心の悩みとして心理学的な知識を背景に扱われている。正に玉石混淆で、何が玉で何が石かわからない。そこで、暫し立ち止まり、交通整理を試みてみようというのがこれからの話で、そのタイトルは「煩悩」。

 「本能」は常識概念(folk concept)、「煩悩」は仏教用語、「学習、生得的、獲得的」は発達心理学などで使われる専門用語である。それぞれ由来が異なるものが、雑煮のようになっていて、そうでありながら、無意味ではない文がつくられている。雑煮としてまとまっているのは私たちがもつ、共通した経験と同じように受けた教育のためである。しかし、それらの間の交通整理ができているかとなると、見取り図がなく、右往左往するしかない状態が近代以降の社会の中で続いてきた。正確ではないが、異なるパラダイムの林立の結果である。

(問)次の各文は正しいか否か答えよ。
本能は煩悩である。煩悩は本能である。本能は生得的、煩悩は獲得的である。

 本能という言葉は『生物教育用語集』(1998)によれば、「動物が生まれながらにもちそなえた複雑な能力。学習によらない生得的な動物の特性として広く使われている」と説明されている。本能行動は本能にもとづく行動で、生得的行動とか遺伝的にプログラムされた行動とも言われている。あるいは、動物のある行動が遺伝的にプログラムされていて、経験によって学習される必要のないとき、その行動は生得的行動と呼ばれる。
 一方、元来は仏教用語である「煩悩」という言葉もよく聞く。『仏教学辞典』(1995)によれば、煩悩とは「衆生の身や心を煩わせ、悩ませ、かき乱し、惑わせ、汚す精神作用」である。多くの仏教経典で煩悩論が展開され、精緻な心理学的分析がなされてきた。それらを要約すると、人の行いはすべて煩悩の働きによるものということになる。つまり、煩悩は人間の生命に根ざす根源的な欲望であり、それは生存に由来するものなのである。
 このように本能と煩悩を比べると、両者が同じような事柄を異なった立場から論じていることがわかる。本能は常識に根ざすが、20世紀以降はヒトも含めた動物の生得的行動を動機づけている要因を科学的に表現している用語になっている。一方、人間の根源的な欲望である煩悩はヒトの生得的行動を動機づけている要因を仏教学的に表現した用語と考えることができる。したがって、煩悩はヒトの本能と同義と言いたくなる。それは少々性急な結論で、まずは「本能」という用語が概念的でしかなく、ヒトも含めた動物の行動の実態を説明できていないことから、本能の科学化が最初の課題ということになる。
 本能の定義が困難だとしても、「本能的」は「生得的」とほぼ同じ意味で使われている。実際には「本能は食欲、性欲、集団欲などの生来備わっている欲求」である。最近は神経生物学や分子生物学分野の研究が進み、生来備わっている欲求(つまり、本能)をその神経回路やそこで働いている情報分子によって多少なりとも説明できるようになってきた。本能は自然が生んだ生物学的に重要な動因であると昔からいわれてきた。例えば、13世紀の神学者トマス・アクィナスは「動物の判断は自然によって賦与されたものである」とし、17 世紀のデカルトは「本能は行動を調節する源である」と考えていた。そして、ダーウィンが初めて動物の行動に関する本能の客観的な定義を提唱した。それは、本能が自然選択の産物であり、動物の生活の他の側面と共に進化してきたというものだった。現在では、行動は遺伝的素因と経験が複雑にかかわりあって発達すると考えられている。
 このように、本能概念は変化してきたが、近代の行動研究では本能的に見える行動を生得的な部分、反射の部分、動機づけの部分に分け、分子レベルで解析できるようになった。つまり、哲学的、常識的な概念だった本能が科学的に語れるようになってきたのである。
 単細胞であれ多細胞であれ、生物であるとは個体として次のような要件を満たしていることである。
生きていくためのエネルギー代謝ができる(自己保存)
自身の複製を作ることができる (自己複製)
 人の心は信念と欲求からなっているというのが常識で、本能的な部分はもっぱら欲求だと考えられてきた。一方、信念は言葉で表現され、意識されるもので、獲得的な学習が不可欠だと思われてきた。いずれにしろ、動物が生存し子孫を残す、つまり遺伝子を複製することに由来する根源的な欲求(=本能)は、何億年かにわたる多細胞動物の進化の中で選択され、生得的な本能行動を引き起こすための遺伝子プログラムとして洗練されたものになってきた。