八重咲きのヤマブキ

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 八重咲のヤマブキの画像を昨日載せたが、それについてよく登場する歌とエピソードがある。

ななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき

 「七重八重に山吹の花は咲くけれども、実が一つもないのはふしぎなことです」がこの歌の意味。詞書(ことばがき)によると、雨の降る日に蓑を借りに来た人に作者(兼明親王)が山吹の枝を差し出した。それを理解できなかった相手が、真意を尋ねたので詠んだのがこの歌で、山吹に実がならないことをふまえ、「みの」に「蓑」をかけてある。太田道灌が、農家で蓑を借りようとして少女に山吹の枝を差し出され、その意味がわからず、後に不明を恥じて歌道に励んだという逸話で有名。結句を「悲しき」とする伝本もある。
 これが八重咲きのヤマブキに触発され、私のまとめたこと。だが、正直なところ、こんな歌を詠まれてもいい気分はしないのではないだろうか。平凡な私には「蓑がなくて申し訳ない」と言われた方がずっとスッキリする。太田道灌の逸話もいかにも作り話という気がしてならない。蓑などと駄洒落にせずに(山ぶきの蓑とは一体何なのか解せない)、歌そのものを味わえば、博物学的な疑問が「あやしき」に、身をつけない山吹への気持ちが「悲しき」に詠われていて、いずれでも筋が通る。八重咲のヤマブキはおしべが花びらに変化し、花粉ができず、そのため実ができないのだが、その理由は別にして、現象として平安時代に既に知られていたようである。残念ながら、私には実ができなくなった近い理由はわかっても、進化論的な遠い理由はわからない。
 八重のヤマブキのような例はユリやバラにもある。八重咲きのユリには、雄ずいのみが花弁化している品種や、雄ずいだけでなく雌ずいまで花弁化している品種もあるという。また、バラの原種の花びらはたったの5枚。現在のバラは観賞用に品種改良され、おしべが花びらに変わったものだが、原種も現在のバラも、花びらとおしべの数を足すと、どちらも180前後でほぼ同じというのがその証拠である。