二つの物語

(1)親鸞の自力と他力
 「自力」とは、自分の能力をあげて懸命に修行に励み、戒律を守ることによって、悟りに到達する道である。一方、「他力」とは、すべての生き物を幸せにしたいという阿弥陀如来の立てた願い(本願)を信じ、悟りに至る道で、親鸞によれば「他力といふは如来の本願力」である。まず、自力は人々がそれぞれの縁にしたがって阿弥陀如来以外の仏の名を称え、また、念仏以外の善い行いを修め、その中ではどこまでも自分の能力に頼る。また、自らの判断に基づいて浄土に生まれ変わろうとするのが自力の道で、これが親鸞の考える「自力」の概念である。一方、他力は、阿弥陀如来が生けるものを救い、幸せにしたいという願いを当てられた、その教えを生きる拠り所として救われていくものが他力の人々であると親鸞は説く。
 浄土宗の専修念仏は「自力」だが、極楽往生は「阿弥陀如来」の本願によるとする浄土真宗の場合は、念仏も極楽往生も「完全他力」である。キリスト教でも、アウグスティヌスは、救済が行為によって決まるのではなく、神の慈悲によるとしている。ロシア正教の場合は、キリストの慈悲は、その信仰により、全ての人に及ぶと考えられていて、親鸞に近い考えである。「他力本願」という「絶対帰依」は、親鸞では自分が帰依するのではなく、阿弥陀如来によって帰依させられる、自然にそうせざるを得なくなっている。帰依できるのは個人の能力でも努力でもなく、阿弥陀如来から付与された信仰心である。
親鸞については既に『歎異抄』に関わる話を二回したので、関心のある方はそれらも参照されたい。)
 日本の仏教は聖道門と浄土門に分かれ、前者には天台宗真言宗禅宗曹洞宗臨済宗など)が、後者には浄土宗、浄土真宗時宗などが分類されている。末法という荒廃した時代の到来を自覚し、それを恐れることによって生まれた死生観やその他諸々の観念は「末法思想」と呼ばれている。鎌倉時代には修行によって悟りを開き成仏することが困難な民衆に対して、平等の救済を説く鎌倉仏教が登場した。浄土宗の開祖法然は、人の救いには難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺、造塔、造仏も必要なく、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説いている。念仏を唱えれば阿弥陀仏の慈悲の心によってその人は極楽浄土に迎えられ、そこで仏となることが許される(弥陀の本願)ということである。南無とは「身命を捧げて服従し、おすがりします。」という意味だから、「南無阿弥陀仏」とは己を捨てて阿弥陀仏に帰依すると宣言することである。
 結局、自力とか他力とかの区別は信仰のスタイルとして受け取られ、悟りに至る異なる過程ということになっている。
 
 このような話を聞かされると、それなりに理解でき、何が自力で何が他力かがわかったような気分になり、さらに、自ら悟りに至るには親鸞の説くところに従い、念仏を唱えることしかないと思い、それで話自体は終わることになる。自動詞と他動詞の区別にも似て、自力と他力の違いは何かを突き止めようとすると隔靴掻痒の感が拭えない。「決める」と「決まる」の違いが自動詞と他動詞の違いと言われても、なぜそのような違いがあり、それが自由や決定の話にどのように繋がっているのかがわからないのである。自力と他力の違いと言われても、なぜそのような違いが出てきて、それがどのような訳で決定的に重要なのかがやはりわからないのである。その理由の重要部分は共に自由意志の存在にあるのではないか。それが次の話である。

(2)自由意志
 これまでの脳科学の研究では、人には「自由意志」がなく、脳が決定した後で、それが「私の意志」として意識される、と報告されてきた。そうならば、脳内のニューロン発火が私たちの動作を決めていることになる。では、思考や記憶、欲求や希望も、同じように決まるのか。ベルリン大学での脳科学研究は、この哲学的な難問に希望を与えてくれそうである。その一連の研究結果は、人の自由意志は幻想ではなく、確かに存在するが、ほんの0.2秒という僅かな間だけ。
 自由意志に関する論争を引き起こした実験は1983年に始まる。アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット(1916-2007)は、私たちがある動作を始める「意識的な意志決定」の前に、「準備電位(Readiness Potential)」という無意識的な電気信号が生じることを見つけた。私たちが「動作」を始める約0.2秒前に、「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。だが、私たちの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れていた。つまり、私たちが「こうしよう」と意識的な決定をする前に、既に脳により決断が下されていたのである。
 この実験は、「自由意志は幻想である」という決定論の科学的根拠とされた。だが、私たちの脳はいかなる理由からか、自由意志をもつという感覚をもっている。2008年に発表された研究によれば、自由意志は幻想だという情報を与えられた被験者は、モラルに反する動向を示すことが多くなる。2016年に発表された研究では、人は自由意志の存在を疑うと、不正行為に走り、他人に協力することをやめる、といった傾向が強まることが報告されている。人は、自由意志への信念を捨てると、自分を倫理的責任を問われる存在だとみなさなくなるようである。決定論を受け入れると、義務や責任を軽視するようなのである。
 では、「自由な選択」という直感的な感じは、無意識下で形成された脳の化学プロセスに過ぎないのか。論争を巻き起こした論文の数年後に行われたリベットの実験では、多くの場合、被験者は「準備電位」と「意識的決定」のわずかな間に、動作を「拒否」する選択ができたという。そして、リベット自身は、この実験結果を「自由意志の証拠」として捉えていたようである。
 ドイツの研究チームが行った実験は、「準備電位」による脳の無意識的決定と、私たちの意識的な意思決定の関係をより明確にした。その研究は、初期に現れる準備電位は、後に自動的な決定に繋がってしまい意識的なコントロールは不可能なのか、それとも私たちは「拒否」することで決定を覆せるのかに着目したものだった。被験者らはコンピューターモニター前に座り、先行する無意識的な準備電位が検出された後に、行動を意識的に中断・拒否できるかを脳電位計測により調査した。この「中断ゲーム」は3つのステージに分けて行われた。
 最初のステージでは、まずモニターの中心にゲームのスタートを知らせる緑のシグナルが現れる。それから2秒後、ランダムなタイミングで緑のシグナルは赤へと変わる。被験者たちは、モニターのシグナルが緑である限り、いつでも足元のボタンを踏んでゲームを中断できる。逆に赤のシグナルが現れたときには、ボタンを押すのを止めるように訓練された。このステージでは、被験者らをゲームに慣れさせると同時に、ボタンを押す約0.5秒前に現れる、被験者個人の準備電位が記録された。
 ステージ2では、脳波計が被験者の意識的決定前に先行する準備電位を検出し、それを赤のシグナルのタイミングとした。ステージ1と同様に、ボタンを踏んでゲームを中断できるのは、モニターの中心が緑の場合だけである。ここでは準備電位と赤いシグナルがシンクロしており、脳による決定がなされた後でも、赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタンを押すのを中断、または、拒否できるかどうかを調べた。
 ステージ3になると、被験者らは彼らの行動が脳波により予測されていると伝えられた。そして自分自身の脳波による予測の裏をかくよう、わざと予測不可能にボタンを押すように指示された。同様に、ボタンを踏んでゲームを中断できるのは、モニターの中心部が緑の場合だけである。
 もし被験者らが、ステージ2と3において、自身の脳の準備電位により予測された動作を拒否することができたなら、自由意志による意識的な制御ができるという証拠になる。今回の実験によって示されたのは、まさに脳からの司令を拒否するのは可能だということである。実験では、ボタンを押す約0.2秒前までならば、動作を中断、または拒否することが可能であったという。結論は、脳の決断後に私たちの自由意志が入り込む隙があるということである。脳は、現在の問題を素早くインプットし、過去の記憶や経験により形成された配線を通して、決断としてアウトプットする。脳が経験した過去の全てを知り得たならば、予測することが可能な判断は、「意識をもつ私たち」によって拒否できるということである。

 さて、(1)と(2)の話をどのようにまとめることができるのか、日曜日の午後が暇な人には考えてもいい事柄ではないだろうか。(1)と(2)は無関係と断じるのもよし、(1)と(2)は人の心を探るのに不可欠と捉えるもよし、である。