時間の変化(4)

時間の形而上学
[絶対的時間と関係的時間]
 既に時間の向きについて話した際、容器とその内容とに分けて時間の非対称性を考えた。同じ喩えを使って別の問題を考えてみよう。容器とその内容は分離でき、それぞれ独立した別のものだろうか。普通の容器、例えば一升瓶はその内容物である日本酒からは独立している。だが、時間の場合はどうか。これが問題である。言い換えれば、時間はその中で起こる事物の存在や本性とは独立にそれ自身の存在や本性をもつのだろうか。あるいは、時間は独立したものではなく、物理的な対象のもつ時間的な性質に過ぎないのか。
 最初の見解は絶対的あるいは実体論的見解と呼ばれるもので、時間をそれ自体独立した実体的なものと考える。二番目の見解は関係論的見解で、時間を事物と出来事の間の時間的な関係であると考える(ニュートンの時間と空間についての考えを復習しておくのが良いだろう)。いずれが正しいのだろうか。まず、関係論的な見解から見てみよう。
 この主張の代表はライプニッツで、次のように主張される。容器としての時間がそこに含まれる内容から独立に存在していれば、神が世界を造るのに二つの異なる可能性が出て、それを説明できない。その理由を彼は次のように考える。神は世界を時刻t1に、あるいは時刻t2につくったかもしれない。だが、すべての時間が(容器の内容とは関係なく)同じなら、神はどのような理由で時刻t1あるいは時刻t2を選んだのだろうか。神が何の理由もなしに何かをするということはないだろう。神の理由は内容に関連しており、それゆえ、時間はその内容とは独立していないとライプニッツは考える。神を持ち出したくない無神論者には次の推論がある。実体論者が言うような二つの可能世界があったなら、私たちはそれらを見分けることができないので、そのどちらに住んでいるのか言うことができない。これで実体論を拒絶できるだろうか。拒絶できるという二つの理由が挙げられる。探り出すことのできない違いという考えは意味がないというのが最初の理由である(本当にそうだろうか)。二番目の理由は、(オッカムの剃刀を使って)私たちはより単純な理論を選ぶべきであるというものである。

(問)本文にあるライプニッツの三つの推論を整理してみよ。

 実体論、関係論という二つの見解は時間に限ったものではなく、空間に関しても対立した見解となっている。その最も有名な論争は1715-6年のライプニッツとクラークの間の論争である。クラークはライプニッツに対して実体論的立場を強固にとるニュートンの見解を代弁、擁護しようとした。ニュートンは次のように信じていた。

絶対的な空間が存在し、それはそこに含まれる物質からは独立している。
すべての対象は空間内で真の、絶対的な位置をもっている。

一方で、ニュートンは私たちが対象の真の位置を実際に決めることは不可能であるとも信じていた。私たちには物体が静止しているか、それとも直線上を一様に運動しているか決めることができない。というのも、力学法則はいずれの場合も同じであるからである(つまり、法則はガリレイ変換に関して不変である)。ニュートンは『プリンキピア』で次のように述べている。「ある空間に含まれる物体の運動は、その空間が静止しているか、あるいは直線上を一様に運動しているかにかかわらず、それらの間では同じである。」これはガリレオの偉大な発見で、ガリレオの相対性原理と呼ばれている。
 一方、ライプニッツが絶対的な空間に反対するのは次のような形而上学的な原理を使った理由からである。

A 識別不可能性による推論
ライプニッツの有名な識別不可能性の原理は次のような主張である。

同じ性質をもつ二つの対象(あるいは可能世界)は同一である。

この原理を使った推論は次のように展開される。ニュートンが正しいとしたら、絶対的な位置だけ、あるいは直線的な運動状態に関してだけ異なった可能世界があるだろう。だが、このような違いは私たちには識別できない。それゆえ、識別不可能性の原理によって、それらは同一であり、したがって、ニュートンは正しくない。

B 充足理由による推論
 ライプニッツによれば、数学から自然哲学に進むためには数学以外の別の原理が求められる。それが充足理由の原理(principle of sufficient reason)で、どんなものも別のようではなく、なぜそうでなければならないかの理由がなければ起こらない、という原理である。これを明確にすれば、

どんなものにも、それが存在し、それ以外ではない理由がある、

と表現できるだろう。この原理を使った推論は次のようになる。

(絶対空間に反対する対称性論証)
A. 絶対空間が一様なら、宇宙に方向がある理由はない。
B. 絶対空間は一様である。
C. だから、宇宙が方向をもつ理由はない。
D. だが、どんなものにも理由がある。
E. したがって、矛盾がある。

これはニュートンの見解に対するもっとも辛辣な批判に見える。絶対的な運動が原理的に観測できないものなら、そのような空間はないと考えた方がうまくいく。
 ところで、運動は観測できないのだろうか。ガリレオの相対性原理によれば、物理法則がそのような参照枠すべてで同じであるという理由から、一様な直線運動は観測することはできない。しかし、加速度運動、つまり、一様でないか直線的でない運動については何も述べていない。実際、

加速度による慣性的でない効果は観測できる、

という事実がある。ニュートンはこの事実を使って絶対空間の議論を展開する。有名な回転するバケツの推論である。以下の推論にある絶対運動は絶対空間に対する運動のことであり、相対運動は絶対的でない運動である。

ニュートンの回転バケツ論証
A. 運動はバケツの水面が凹面になる原因である。
B. 運動は相対的か、絶対的かである。
C. だから、相対運動か絶対運動のいずれかが凹面の原因である。
D. だが、相対運動は凹面の原因ではない。
E. だから、絶対運動が凹面の原因である。
F. 何かが原因であれば、その何かは存在する。
G. だから、絶対運動は存在する。
H. 絶対運動が存在すれば、絶対空間が存在する。
I. したがって、絶対空間は存在する。

ニュートンの論証への批判者は絶対空間が観測可能ではないと言う。だが、ニュートンは絶対空間を原因とする結果が観測可能だと論じる。どんなものもその結果を通じて観測されるので、原因である絶対空間があるというのがニュートンの答えである。

(問)結果が観測されれば、その原因が存在すると推論することは正しいか。正しくないとすれば、確からしいだろうか。また、回転バケツ論証にはアブダクションが使われているだろうか。

 上の推論をより具体的に考えてみよう。水の入ったバケツが静止している状態を考えよう。このバケツを洗濯機の水槽が回るように回そう。バケツが回っても、最初のうちは水の表面は静止したままである。そのうち水も回り始めると、水の表面は平らではなく、カーブを描いて中心がへこんでくる。バケツも水も静止している場合と同じ速度で回っている場合は、水はバケツに対して静止しているといってよい。これらの場合、相対運動には何の違いもない。では、これら二つの場合の違いは何によって説明されるのか。ともに静止している場合と違って二番目の場合は空間それ自体に対して回転が存在するというのがニュートンの答えである。これが唯一つの説明だろうか。他の可能性はないのか。例えば、観測者に対して回転が存在するというのは答えにならないのか。だが、観測者はそもそも必要なのか。観測者だけが回転すると、水の表面に変化が起こるのだろうか。
 ニュートンは回転するバケツ実験の変形を考える。それは二天体思考実験である。二つの天体が互いに他の周りを回転している場合に限って、それら天体を結びつける紐に力が働いていることをばねばかりで示すことができるとニュートンは考える。これは天体が星に囲まれていなくとも正しいだろう。あるいは、天体が全く何もない空間にあっても正しいだろう。このニュートンの主張は正しいだろうか。私たちは実験を実際に行なうことができない。では、どうしてその結果を知ることができるのか。この点はバークリー、そしてマッハによって指摘された。マッハによる反論は次のような内容である。

回転バケツ論証へのマッハの返答
A. 凹面の物理的原因はバケツの運動である。
B. 運動は相対的か絶対的かのいずれかである。
C. それゆえ、凹面の物理的原因は相対的運動か絶対的運動かのいずれかである。
D. だが、絶対的な運動は観察できない。
E. 物理的原因は観察できる。
F. それゆえ、絶対的な運動は物理的原因ではない。
G. それゆえ、凹面の物理的原因は相対的な運動である。

(問)回転バケツの論証とそれへの返答におけるニュートンとマッハの推論を比較し、二人の違いをまとめよ。