異論「第一義」

 謙信の座右の銘が「第一義」であり、その意味は「人として宝とすべきは、物ではなく物を超えた心、すなわち人を思いやる慈悲の心である」と恣意的に解釈され、校是や社是として使われてきた。何とも古臭い校是で、生徒や社員の歓心を買うとは到底思えない。私にはこの「第一義」が古臭いどころか、言葉の誤用に近い使われ方をしているとしか思われないのである。勿論、この不遜にみえる考えが誤りで、正統な意味はこうだという史実があれば、私には大変有難いのだが、それが見つからないのである。
 杓子定規な言葉遣いをすれば、「第一義」とは「根本的な原理」を意味していて、例えば、力学の第一義、つまり力学の根本原理は「質量保存の法則」である、というようなことになる。同じ言葉遣いをすれば、釈迦が悟った仏教の第一義は「諸行無常」である。つまり、「第一義」=「根本原理」=「座右の銘」のことであり、誰も「座右の銘」を座右の銘にはしないだろう。自らの人生の第一義として「脱亜入欧」ではなく、「独立自尊」を選ぼうということはよくわかるが、自らの座右の銘として「第一義」を選ぶというのはボタンの掛け違いどころか、自らの名前を「名前」と呼ぶようなもので、言葉の使い方の誤用である。
 このような言語レベルの違いを無視した「第一義」は、禅問答にしばしば登場する頓智のような効果をもっている。「第一義」と書き、それを肝に銘じることによって、各人にとっての「第一義」を自覚してほしい、という願いを表現していると解するのである。高校教育の一つとして各生徒に自らの第一義を見出してほしいと言うためには、特定の内容をもつ校是ではなく、「自らの第一義を見出せ」という意味で「第一義」と書くのが効果的なのだと解釈すればいいのである。謙信の第一義が「諸行無常」と言う仏教の原理だとすれば、それをそのまま生徒に強いるのは酷というより、野暮でしかない。
 「雲は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり」と謙信は述べたが、これなら座右の銘としてとてもわかりやすい。また、謙信から九代目の上杉鷹山の「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」も多くの人の座右の銘になっている。いずれもわかりやすい主張だが、それらに比べると「第一義」は一筋縄ではいかない、ひねくれた座右の銘なのである。