球根のバブル

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 球根は「bulb」、「bubble」は熱狂的な投機とその崩壊。1630年代のオランダのチューリップ球根への投機熱は、近年の日本の土地や証券の過熱した投機熱、あるいは、1929年の「大恐慌」をもたらした1920年代後半のアメリカにおける投機熱の原型の一つ。16世紀末にスペインから独立したオランダは、17世紀前半には西ヨーロッパ世界の中心となり、「オランダ東インド会社」、「アムステルダム振替銀行」などを設立した。アムステルダムの取引所では、通常の取引に加えて、穀物、ニシン、香料、砂糖、銅などの商品、さらには、東インド会社の株式が先物取引の対象として活発に売買されていた。
 オスマン・トルコ帝国に神聖ローマ帝国の大使として駐在していたオジエ・ギスランド・ビュスベクが、ヨーロッパにチューリップの球根を最初に持ち込んだ。チューリップは異国情緒溢れる花として珍重され、ヨーロッパに紹介された当初から富の象徴となった。収集家は、チューリップの品種を花の色や模様で分類したが、花の模様がどうなるかわからず(実際は球根につくウィルスによる)、それがさらに関心を高めた。ごく普通の球根を植えると、貴重な模様の花が偶然に咲く場合があったのだ。
 チューリップの人気が高まると、年間を通じて取引できるようになり、貴重な品種の球根は1個単位で取引された。パリやフランス北部で球根の価格が上昇しているとの話が広まり、織布屋や紡績屋、靴屋、パン屋、雑貨屋、農民などが市場に加わり、チューリップ熱が高まるととともに、社会階層のほとんどを巻き込むまでに至った。
 チューリップの市場は参加者の増加に伴い、性格を変えていく。当初は相対で取引されていたが、やがて居酒屋の一室にブローカーや投機家が集まって相対の交渉と入札という形で取引され出す。1636年後半から1637年初頭にかけて、投機熱が最高潮に達したころ、球根が実際に受け渡されることはなかった。球根の先物取引が登場し、それは「風の取引」と呼ばれた。そして、投機熱が最終段階になると、先物取引と裏付けのない信用の組み合わせによって、売り手の側、買い手の側の双方に実態がない点で、みごとに釣り合いのとれた構図ができあがった。球根の帝王の地位にあった最高級品種の「無窮の皇帝」は、ブームの頂点では6000グルデンでも売れたといわれる。当時のオランダの平均年間賃金が200~400グルデンだった。

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無窮の皇帝


 1637年2月3日、チューリップ市場は突然暴落した。春が近づき、間もなく花の受け渡しの時期が来て、ゲームが終わることぐらいしか理由はなかった。翌日になるとチューリップはどんな価格でも売れなくなった。翌年5月になってようやく政府が、合意価格の3.5%の支払いで売買契約を破棄できると宣言した。この頃にはアムステルダムの市場に収集家が戻り、珍しい品種の球根を安値で買うようになっていた。数年経つと「無窮の皇帝」などの希少な球根は、熱狂がはじめる前の水準にまで価格が戻った。暴落の後、チューリップは虚栄を描いたオランダの画家の心をうまく捉え、それまでの頭蓋骨や砂時計などと並んで、贅沢や邪悪、愚かさの象徴となった。

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ウィレム・ファン・アールスト「時計と生物」