ヘーゲルの自己意識

 少し前に「欲望:ヘーゲルまで戻ると…」でヘーゲルが欲望を重視したことを述べた。それを今日は意識の観点から捉えてみよう。
 ヘーゲルは「自己意識」という言葉を二つの違う意味で使う。一方では、対象を意識している主体としての意識という意味での使い方。これは、デカルトやカントの認識論が語っていた自己意識とほぼ同じもの。さらに、ヘーゲルは同じ自己意識をもつ他人と関わり合う自己意識という使い方をする。この場合の自己意識は、同じような自己意識をもつ他人に向き合い、意思疎通する意識で、最初の自己意識のように、単に物理的な対象として眼前の現象に向き合っている意識ではない。
 自己意識のこのような理解の仕方は、デカルトやカントのようなヘーゲル以前の哲学者たちにはなかった。ヘーゲルは自己意識に新しい次元を加えることによって、人間の精神の働きを個人の狭い意識の範囲内に閉じ込めるのではなく、意識を他人との関わり合い、広い意味での社会的な関わり合いの中に置き、その場で人間の本質を明らかにしようとした。この社会的な自己意識を、ヘーゲルは個人とほぼ同義に使っている。だから、自己意識の共同体は、個人からなる共同体という意味で使われることになり、この個人が集まる共同体の生活の中にこそ、人間性の本質があることになる。
 既述のように、ヘーゲルによれば、自己意識の本質は欲望である。欲望は生き物が生き続けたいという衝動から生まれる。つまり、ヘーゲルにとって、人間は観念的で抽象的な存在ではなく、身体をもち、欲望する生き物なのである。今様にはこれを身体論とでも呼ぶのだろう。ヘーゲルはそれを具体的に展開していないが、欲望を満たして生きる人間の全体的な把握、理解に近づいていて、理性的、主観的人間から生物的、社会的人間への転換をヘーゲルに見て取れるのである。
 この「生物的な存在」、つまり「生命」に注目し、人間を抽象的な観念として捉えるのではなく、人間は生命ある存在だというのがヘーゲルの着眼点なのだが、今の私たちには特に驚くことではない。
 さて、このような自己意識は、自己が自立していることの確認を求めるのだが、その確認は他人の自己意識を認めることによってなされる。自己意識は自分だけでは自己自身であるという確信できる証拠を持てない。そこに他人が求められるのである。つまり、人間は本質的に社会的な存在なのである。
 ヘーゲルを有名にしたのが、既述の「主人と奴隷」の議論だった。これは後にマルクスに大きな刺激を与えることになる。「主人と奴隷」とは、支配-被支配関係を象徴的に表現した謂い回し。人間は互いに承認を求めて戦い、その相克の中から、支配-被支配という関係を築きあげる。戦いに勝利したものは、相手を支配することによって自分は主人として自立しているという確信を持ち、負けたものは奴隷として相手の支配に服する。これは人間性に根差したものだとヘーゲルは考える。したがって、人間の歴史もまた、この支配-被支配関係としての奴隷制から始まる。強い者が弱い者を征服する。奴隷は、死の恐怖に駆られて支配者に服従する、という関係が成立する。これがすべての人間社会の歴史の出発点なのだ、とヘーゲルは考える。主人と奴隷の関係は、一見して一方的な関係に見える。だが、両者は互いに相手を前提としている。奴隷が存在しなければ主人は存在できないように、両者はシステムとなって初めて意味を持つようになる。
 そして、ヘーゲルは主人-奴隷関係の中に潜んでいる弁証法的な契機を明らかにしていく。まず、主人は奴隷を支配し、奴隷は主人に服従する。次に主人は奴隷の労働を通して物を獲得する。奴隷は奴隷で、労働を通して直接物にかかわり合う。ここでわかるのは、主人の自立性は奴隷との相対的な関係に依存していて、主人は奴隷がいなくなれば主人であることをやめることである。つまり、主人は人間としての自立性を失うのである。主人でなくなったものは、物とのかかわりも失うからである。
 だが、奴隷の方は主人がいなくなっても、人間としての自立性を失うことにはならない。というのも、奴隷は労働を通じて直接に物にかかわっていて、そのことを通じて人間としての本質に即した生き方をしているからである。人間の本質の実現は労働を通じてもたらされる、というヘーゲルのこの考えがマルクスに多大な影響を与えたのである。マルクスヘーゲルのこの主張に刺激を受け、労働こそが人間の本質を実現する過程だと考えた。資本主義社会の支配者である資本家は他人の労働に依存しているという点で、ヘーゲルの「主人」と同じ立場にある。一方、ヘーゲルの「奴隷」に対応する労働者階級は、労働を通じて人間の本質を実現できる立場にある。それゆえ、資本主義社会が消滅して共産主義社会が到来すれば、労働する人は、労働を通じて自己の人間性を全面的に発揮できる立場になる。マルクスはこのように考えたが、その思想の芽はヘーゲルの「主人と奴隷」の議論の中にあったのである。
 ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、人間の精神が様々な問題に直面し、自らを否定し、その否定を乗り越えていく経緯を弁証法的な過程として描いている。その結果、人間の精神(=意識)は、感覚的な段階から「絶対知」の段階へ到達すると彼は主張する。ヘーゲルによれば、人間の意識のもっとも素朴な段階は感覚的な表象である。これは、目の前の対象だけが真であり、それゆえ、対象がそのままに実在し、自己は対象をそのまま見ていると素朴に信じている段階である。しかし、意識はやがて、主観(認識)と客観(対象)が互いに独立して分かれているのではなく、自己が両者を関係づけていることを知るようになる。つまり、主観と客観の「相互承認」がなければ、自己意識は成り立たない。そのよい例が、主人と奴隷だった。奴隷は闘いに敗れて主人に従順であるが、実は主人の方は、そうした奴隷の従順な労働なしには生きていけない。このように、自己と対象とが意識において一つであると気づくとき、自己意識は理性へと発展していく。
 理性は、自己の価値を様々な関係のなかに見出していく。理性には、自然を観察し、そのなかに自己を見出そうとする「観察する理性」があるが、もう一つ、他者から承認してもらおうとする「行為する理性」がある。この「行為する理性」は、まず、相手との愛の快楽に自己の価値を見出そうとするが、閉鎖的で個人的であるためにうまくいかない。次に、「自分の幸せがみんなの幸せ」になることをめざすが、自分が思う「みんなの幸せ」と他人が思う幸せが一致しないことを知る。そこで、「行為する理性」は、自分が思う「みんなの幸せ」をなんとか実現しようとするが、世間を無視した独善性のため、やはりうまくいかない。その結果、「行為する理性」は、一定の普遍性を持つ行為のみが、他者からの承認を得ることを知るにいたるのである。
 意識から自己意識へ、自己意識から理性へという人間個人の精神の成長を描いたヘーゲルは、次に、このプロセスを歴史に適用し、人類の精神の成長にダブらせて歴史を描き出す。個体発生の議論が系統発生の議論へと転化していくのである。個体発生と系統発生の旨く符合するかに見える重ね合わせがここに見られる。ヘーゲルによれば、古代ギリシアのポリスから古代ローマへ、さらに絶対君主制を経てフランス革命へといたる歴史が個人の精神の成長と重なるのである。理性の自己実現が歴史としての系統発生と個体の個体発生の両方に見られるのだが、二つは同じ段階、過程をもって実現されている。
 欲望をもった自己意識の成長が社会の発展に反映されて行くことがロマン主義の主張であるのだが、今の私たちにとってこのような歴史展開をそのまま受け入れることはもはやない。欲望をもつ人間像を認めても、その人間の生物学的事実と進化の歴史は正に実証的な研究対象であり、思弁的な対象でなくなって久しいのである。