善と正義の戦い:そんな戦いは善なのか正義なのか

 ロールズの最大の貢献となれば、「善」と「正義」を対立させ、その相克を重大な問題として掲げ、理論的な分析と構築を試みたことです。「善」と「正義」をどのように定義し,両者の関係をどのように規定するか、これまで議論が続けられてきました。ロールズは「正義が善に優先する」と主張しましたが、これはそれまで優位だった功利主義に対するアンチテーゼでした。伝統的な功利主義によって、善がいつでも最優先の価値を持ち、善を基準にして、望ましい行為、法や制度が理解されてきました。このような功利主義は整合的な社会的判断を下すことを可能にする考えだったため,英米圏において長らく支配的な倫理思想となってきました。ロールズは、このような功利主義の考えに異を唱え、あらためて正義の優先性を主張したのです。

*「善」と「正義」の違いは何なのか、意外にぼんやりしているのです。「よい」ことと「正しい」ことが違うのははっきりしているようで、実はよくわからない関係にあるのです。

 人はみな個性をもち、それぞれの共同体に属しています。ロールズの「負荷なき自己」などどこにもいません。これが、サンデルがロールズを批判する理由で、彼は逆に「負荷のある自己」を主張します。「負荷のある自己」とは、人は必ず特定の環境に身を置き、何らかの負荷を担っているということです。では、サンデルの視点から考える時、ロールズの「正義」はどのように評価されるのでしょうか。ロールズは正義は善き生に対する特定の考え方に依拠せず、正義の善に対する優位性を強調します。そもそも正義と善の違いは何なのでしょうか。「無知のベール」は、自分の属性をわからなくし、人を特定の特徴から切り離す仮定で、自らの属するコミュニティや社会階層、個別の利害から脱するところにその意義があります。では、コミュニティや社会階層は個別の利害の温床に過ぎないのでしょうか。コミュニティや階層には独特で積極的な価値をもつ側面もあるはずです。多くの場合、コミュニティ内で伝統的に受け継がれ、語り継がれてきた「善きこと」があります。つまり、コミュニティの中には伝統、習慣、文化として「善」が含まれています。そして、サンデルが強調するのは、こうしたコミュニティの中に含まれた「善」なのです。例えば、故郷は善をふんだんにもっているのです。
 コミュニティに宿る価値観を「善」や「美徳」として積極的に評価するのか(サンデル)、それともそのような価値観は個別的なコミュニティがもつ相対的価値に過ぎないと捉えるのか(ロールズ)、それに二人の違いがあります。それゆえ、ロールズの「正義」は、コミュニティ的価値から切り離されることによってはじめて実現できる普遍性を意味しています。個別的、相対的にすぎないコミュニティ的価値に対して、普遍的な「正義」をロールズは優先するのです。各コミュニティの「善きこと」は結局相対的でしかなく、それゆえ、そこから脱却しなければなりません。では、その後に何が残るのでしょうか。それが「正義の二原理」です。
 各コミュニティの「善」から切り離されるということは自由の獲得を意味します。ミルは平等な基本的自由を主張し、他人を侵害しなければ何をしてもいいと考えました。でも、そこには条件があります。まず、自由の下で不遇な状態に陥った人々は尊重されねばなりません(格差原理)。次に、自由の下で機会は公正に与えられなければなりません(公正な機会均等原理)。人はどのような価値観を持ってもよく、その特定の価値観は自由を侵害してはなりません。自由こそが人間の基本的な権利であり、しかも格差への配慮と機会の均等がその権利のもつ不可欠の特徴なのです。
 でも、サンデルによれば、このような「正義」は何ら実質を持ちません。コミュニティから切り離された人間などいないからです。人は必ず、家族の一員であったり、国民だったり、特定の階層に属していたり、ともかく何かのコミュニティに属し、具体的状況を背負って生きています。人はこのような具体的状況の中で生きるしかなく、他に途はないのです。ロールズが「無知のベール」を通して想定する人は、あらゆるものから独立した主体でした。彼は社会や他者から切り離された主体がともかくも存在するとしたのです。その後に、その主体が社会や他者と関わるのです。各主体は他の主体と明確な境界で隔てられている個体なのです。
 コミュニティ的価値は個別利害であるゆえに、そこから脱却して普遍的な正義に達しようとしたロールズに対し、サンデルはコミュニティ的価値こそが人のアイデンティティを形成し、共通善を生むのであって、単に普遍的な正義だけでは人の実質的な生はあり得ないと考えるのです。コミュニティの中で関係を持たなければ、そもそも人は具体性を持ち得ず、人たりえません。コミュニティの価値が一人一人の人格に深く入り込んでこそ、人は自らのアイデンティティを持ち得るのです。そして、それが共通善となり、目的となるのです。
 はてさてロールズとサンデル、いずれの意見が正しいのか、それとも二人ともおかしいのか。わからなくなるだけではここまで書いてきた意味がありません。よいことと正しいことは甲乙つけがたく、いずれが優先されるかなど贅沢な問題で、いずれでも構わなく社会が良くなるのであれば、それで十分と考えるのが普通の人ではないのでしょうか。倫理か法かの違いで、いずれから始めても、いずれを基本においても、結末は同じになるはずだと呑気に考えてはいけないのでしょうか。目くじら立てて優先権を主張しても大した意味はないように思えるのです。
 むしろ、私には正義から善、あるいは善から正義への道筋がどのようにつくかが重要な問題であるように思えるのです。