宗教が変わる(2)

実践形而上学ブッダ
 ブッダの悟りの中味については種々の解釈があります。彼は開悟の後、かって一緒に修行した5人に最初の説法を行いました(初転法輪)。その時の説法が経典として伝えられていて、その初転法輪の説法には悟った直後の生々しい息吹が反映されています。では、初転法輪ブッダは何を説いたのでしょうか。初転法輪は、1中道、 2八聖道(八正道)、3四聖諦(よんしょうたい)、4五蘊(ごうん)無我からなっています。この教えによって5人の修行者は解脱し、「阿羅漢」になったと伝えられています。原始仏教では阿羅漢が最高位の聖者で、ブッダもその阿羅漢の一人です。それでは1~4の中味をみてみましょう。
 ブッダは、欲望に身をまかせ、快楽に耽る生活と苦行の生活の両方を否定し、いずれかに偏らない「中道」が悟りに導く実践的方法だと考えました。2の八聖道はその具体的実践中身が説かれたものです。3の四聖諦は人生苦に関する四つの聖なる真理です。そして、最後にブッダが説いたのが五蘊無我です。
 1の中道はわかりやすいものです。当時のインドでは苦行によって解脱が達成できると一般的に信じられ、それも厳しい苦行ほどよいと考えられていました。激しい苦行を実践したブッダは、苦行は必要以上に心身を苛むだけで、悟りには至らないことを自らの体験を通じて知ります。また、苦行の反対の快楽も悟りに至る道でないことは、既に出家前の王宮で経験していました。現代風に言えば、中道は苦楽の中間を行く合理的な道ということになります。
 八聖道は仏教の基礎となる考え方で、八聖道を実践すれば苦が克服できるとされています。八聖道は次の八つの事柄から成っています。

正見(しょうけん):正しい見解
正思(しょうし):正しい思索
正語(しょうご):正しい言葉
正業(しょうぎょう):正しい行為
正命(しょうみょう):正しい職業
正精進(しょうしょうじん):正しい努力
正念(しょうねん):正しい注意力
正定(しょうじょう):正しい精神統一

 上の八つの「正しい」は何を意味しているのでしょうか。これが具体的にわかれば八聖道は使えるマニュアルになるのですが、八つの「正しい」が同じ「正しい」なのか、それとも異なるのか、それさえはっきりしません。ですが、5人の弟子にはブッダの直接の指導があったものと思われます。
 四聖諦とは四つの聖なる真理という意味で、次の内容からなっています。

苦聖諦:迷いにもとづく生存は苦であるという真理:人生の苦は四苦八苦からなる。
苦集諦:苦の生起に関する真理:苦の生起は喜と貧が伴い、いたるところで執着す          ることから起こる。
苦滅諦:苦の止滅に関する真理:苦は不変の状態ではない。苦の原因である渇愛を滅し去ると、もはや固執することのない境地(解脱)に至る。
苦滅道諦:苦の止滅に至る方法に関する真理。八聖道からなり、八聖道の実践によって苦の止滅に至ることができる。

 四聖諦と八聖道は仏教の基礎です。四聖諦のうち苦、集の二諦は事実をありのままに見たときの姿で、滅、道の二諦は解脱についての考えです。八聖道は苦滅道諦そのもので、苦からの解放と解脱を実現するための実践法です。この方法もブッダは具体的に指導したは筈です。
 こうして、仏教の中心命題は「苦からの解放(精神的解放=解脱)」にあることになります。八聖道は仏教の核心で、仏教の目指すものが精神的苦しみからの解放であることは八聖道の全てが人間の精神的な活動そのものであることからわかります。日常生活で生活水準を上げても精神的な苦しみから逃れることはできません。解脱のためには出家修行が基本であるため、「小欲知足」の生活をせざるを得ません。物質的豊かさからくる幸福より精神的安らぎを目指したところに仏教の特徴があるとともに、仏教の限界にもなっています。
 以上をまとめると次のようになります。四聖諦の真理を理解し、八聖道の実践を通し、心を清らかにします。そうすると、渇愛に基づく感情的、感覚的な生き方から自由になることができます。そのことによって苦の生活から離脱し、解脱できます。自己を八聖道の実践を通し鍛えることによって解脱できるのです。これがブッダの説いた八聖道のエッセンスと思われます。八正道の実践(修行)によって理想的自己実現を説くブッダは、四諦、八聖道などの方法を使って修行することによって、本当の自分を作り上げ、苦しみや迷いからの開放をを目指しました。既述のように、ブッダの説く八正道で特徴的なことは何が「正しい」かをはっきりと規定していないことです。そこには各自が何が正しいかを考え、追求する自由があります。他の宗教のように、宗教的ドグマや教条によって規定されていません。このような自由と寛容さこそ仏教独特の特徴です。とはいえ、「正しさ」という基本的なことも自分で考えるということになると、誰もが路頭に迷うことになりかねません。それでは「仏つくって魂入れず」と批判されることになります。
 注目されるのはブッダ初転法輪における説法はこれだけではなかったことです。それが五蘊(ごうん)無我。普通初転法輪の説法では「1中道、2八聖道(8正道)、3四聖諦」までとされています。しかし、五人の修行者に対するブッダの説法はさらに五蘊無我の教えを説いています。ブッダは五人の修行者に対してはまず中道、八聖道、四聖諦を説き、寝起きを共にしながら托鉢修行の生活を送りました。この生活によって心を清らかにし、渇愛に基づく生き方を止めさせたと思われます。つまり、ブッダは五人の修行者の心がこの生活を通して素直にかつ清らかになることを待っていたと思われます。それが確認できた時、ブッダは五人の修行者に受戒して、弟子となることを許しています。ブッダは機が熟すのを見て五蘊無我の教えを説きました。「中道、八聖道、四聖諦」は五蘊無我を説くための基礎的な準備説法だったのです。五蘊(ごうん)とは色(かたちあるもの、身体)、受(知覚作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(識別作用)の五つです。
 ここで注目されるのはブッダの「清らかな行いをしなさい」という教えです。ブッダの説く教えは清らかさを重視します。それは単なる哲学や思想と異なる側面です。「清らかさを重視する」ことが後に仏教が宗教化する原因と考えられます。「中道、八聖道、四聖諦」は明晰で判明ですが、そこからはブッダの説く教えが宗教的であるとは思われません。人生は苦であると分析し、その人生苦からの開放を目指す「中道、八聖道、四聖諦」の教えは平易で明晰な実践哲学と言えます。でも、この考えに到達するために6年間も苦しい修行が必要であったとは考えられません。このように考えると、ブッダの悟りの核心は五蘊無我の教えにあるということになります。
 ブッダは五人の修行者に五蘊無我について 次のように説きます。
「修行僧らよ、いろ・かたちあるもの(色)は我(アートマン)ならざるものである。もしこのいろ・かたちあるもの(色)が我(アートマン)であるならばこのいろ・かたちあるもの(色)は病にかかることはないであろう。いろ・かたちあるもの(色、身体)について「わがいろ・かたちあるもの(色)はこのようであれ」とか「わがいろ・かたちあるもの(色)はこうあることがないように」となしえよう。しかるに修行者たちよ、いろ・かたちあるもの(色、身体)は我(アートマン)ならざるものであるから、いろ・かたちあるもの(色)は病にかかり、また、いろ・かたちあるもの(色)について「わがいろ・かたちあるもの(色)はこのようであれ」とか「わがいろ・かたちあるもの(色)はこうあることがないように」となしえないのである。」
 その後で、知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)についても同じ論理で我(アートマン)でないことが説かれます。これらは自分の思い通りにはならず、すべて無常で、苦であることが説かれています。 そして、最後の結びの部分で 「修行僧らよ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は、いろ・かたちあるものを厭い離れ、知覚作用(受)を厭い離れ、表象作用(想)を厭い離れ、形成作用(行)を厭い離れ、識別作用(識)を厭い離れる。厭い離れたとき、貪りを離れる。貪りを離れるから、解脱する。解脱したとき「私は解脱した」と知る。すなわち、「輪廻の生まれは尽きた。清らかな行いは修められた。なすべきことをなし終えた。もはやこのような迷いの生存を受けることがない」と悟るのである」と言っています。
 五蘊とは物質的なかたち(色)、知覚作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)です。五蘊とは人間存在の5つの根源的要素です。蘊とは寄り集まってできたものの意味で、五蘊は仏教の中心概念の一つです。ここでいう物質的なかたち(色)とは無機的物質ではなく、私たちの身体のことです。ブッダは人間存在を(色)、(受)、(想)、(行)、(識)の5要素(五蘊)に分類します。これらの5要素はたえず変化しており、自分の思う通りにはなりません(コントロールの外にある)。我(アートマン)という霊的中心はそこには存在しません。我(アートマン)的実体や霊魂のようなものは無いにもかかわらず、人はそれがあると考え、それに執着します。そのため私たちには苦が生じます。それをありのままに正しい智恵によって捉え、我(アートマン)という考えに執着しなければ解脱できる、というのがブッダの教えです。
 さて、ここで私たちがもつ大きな謎は「我(アートマン)」は「自我、自己、私」などと呼ばれるものと同じかどうか、異なるなら何が異なるかということです。私たちのもつ「自我」概念はデカルト以来の西欧由来の「自我」概念で、ブッダの「我」とは当然異なる筈です。また、近年の脳科学の知見と比較すると、ブッダの主張はどのように評価できるのでしょうか。それらについては次回考えてみましょう。