大相撲報道の教訓

 年の瀬になっても民放の多くは傷害事件から派生した貴乃花親方の処分問題に明け暮れ、何とも平和である。新幹線の台車亀裂の方が遥かに重要で、JR西日本の説明などワイドショーでパネルを使って批判的に、しつこく説明した方がずっとスリリングで面白い。芸能人と芸能人まがいの報道陣、ほぼ同類のコメンテーターや老人記者たちは真実不明の中で互いに腹を探り合い、偏見だらけのフェークトークを繰り広げる。そんな喧噪の中で教えられたものを三つだけ挙げておこう。
(1)わからない事実について話したり、考えたりしている時、その当人自身の姿が逆に見えてきてしまう。明白な出来事や法律を考えたり、話したりしている時は自分を表に出す必要はなく、その出来事や法律にもっぱら注意を集中し、自らのことは忘れてそれが何かを明らかにできる。それを見ている私たちも当人の思惑などより扱われている出来事や法律にもっぱら注意が向く。だが、対象がなんだかわからないままにそれについて議論し、そのわからないものについて判断する場合(貴乃花親方は現役時代を含め昔の彼の言動から推し量られる)、推測する当人の知識、感情、記憶、そして主義主張が表面に出てくることになる。そして、自分の意見を周囲の状況を見極め、自らの位置や相手への配慮といったことまで考えながら話すことになるが、それによって自分が視聴者に丸見えになるのである。だから、わからないことを話す当人のことがかえってわかってしまうことになる。つまり、対象が明白な場合は科学者や法律家の態度でよく、自分の人間性など出ないのだが、対象が不明の場合はそれでは極めて不適切で、上記のように周りを読む芸能人擬きでないとうまく対応できず、その結果、当人の人間性を曝け出すことになる。これは、わからないことに対処する際には当人の人間性が丸見えになるという教訓である。
(2)テレビ番組が視聴率のためにこぞって判官びいきになり、正月中も続くとしてみよう。貴乃花親方もこのまま沈黙を続け、貴ノ岩も入院したままとなって初場所を迎えたとしてみよう。芸能人まがいからなるテレビ番組はパネルを飽くことなく使って日本相撲協会を貶し続ける。この情報攻勢は正月後の仕事に戻った人たちには無意味な空騒ぎにしか映らなくなる。要するに飽きるのである。貶しに貶され、貶され続ける相撲協会は言われるほど悪者ではなく、可愛そうだという空気が何かの拍子に一気に広まる。そして、このどんでん返しが実はテレビ局の裏のシナリオだったのだということになれば、このたくらみは大成功ということになる。これは、一丸となった行動が自発的に生じた場合にはその結末が真逆になる場合があるという教訓である(小池都知事のケースが思い出される)。
(3)これだけが真に大切な教訓。それはモンゴル人横綱に対する引退後の扱い。サッカーも野球も外国人の監督やコーチがいるのが当たり前だが、相撲部屋の親方になるには日本国籍が必要。その理由が余程のものでない限り、これは差別に映る。相撲協会貴乃花親方も、そして芸能人まがいの関係者たちも、この問題について大いに語り合い、議論する機会を持っていただきたい。相撲も野球も、柔道も剣道も、どれも国技ではない。相撲は神事だとしても、場所の取り組み自体はスポーツでなければならない。だから、どれもスポーツとしては平等である。それなのに、なぜ親方は日本人である必要があるのか、これをテレビ局がこぞって議論すれば、憲法改正についての国民的な議論の予行演習になること間違いなしである。