素粒子の姿と景色

素粒子は粒子なのか。

素粒子は粒子として表象できるのか。

見えないものについてそれが何かを知ることができるのか。
見えないものを見えるものとして表象できるのか。
見えないものを表象するとはどのようなことか。

1 素粒子は果たして普通の粒子に似ているのか
 ギリシャ時代以来の原子論は、どんな物質も原子からできていて、物質の本性はこれら原子の組み合わせに還元できる、と主張してきた。この原子論が物理学の分脈に移され、そこに実験的な実証と数学的な精密さがさらに加えられて、19世紀の物理学ができあがった。ところが、20世紀に入り、この原子がさらに様々な素粒子からできていて、物質はみな電子、陽子、中性子、中間子などの素粒子から構成されていることがわかった。ところで、これら素粒子は普通私たちが粒子(particle)と呼ぶもの、例えば砂粒のような粒をただ小さくしたものと考えてよいのだろうか。私たちが知覚できる物体の諸性質、例えば色、温度、固さ、柔らかさは、これら素粒子の組み合わせに還元できるが、これら素粒子自身は色、温度、固さ、柔らかさなどという性質をもっていない。では、素粒子は色をもつとか温度をもつとかいうものではないということになるのだが、色とか温度との性質を取り去れば、それ以外は普通の小粒子に似たものと考えてよいのだろうか。例えば、空間内のどこかに位置を占めているとか、ある速度で運動しているとか、また一つ、二つと数えることができるとかいう性質は、砂粒と同様に素粒子ももっていると考えてよいのだろうか。古い原子論での粒子はそのようなものと考えられていた。だが、現在の素粒子論が古い原子論と似た点をもちながら、根本的に違うのは、素粒子は小さな砂粒とは全く異なるという点である。
 素粒子は小さな粒子に似ているように見えながら、似ているのは名前だけで、実は全く似ていないのである。

2 素粒子は数えることができる
 素粒子は数えることができる。では、どのように素粒子を数えるのか。例えば、テレビに使う蛍光板のような装置は、それに電子がぶつかると光を発する性質をもっている。そこで、この蛍光板に非常に希薄な電子の流れを当てると、板のあちこちの点がポツリポツリと光る。この発光はちょうどその瞬間にその場所に電子がやってきたことを示している。だから、蛍光板にあたった電子は一つ二つと数えることができる。これは電子が通常の粒子と似ていることを示している。
 では、光はどうか。普通光は波動と考えられている。だが、光も電子と同じようにその数を数えることができる。光が数えられるということは19世紀の物理学者の全く知らなかったことで、20世紀の大発見である。金属の表面に光を当てると、そこから電子が飛び出すという現象は19世紀から知られていた。ところが、この時に飛び出る電子について、次のようなことが発見された。充分に弱い(希薄な)光線を金属面にあてると、この面のあちこちの点からポツリポツリと電子が飛び出す。このとき単色光を用いて実験を行ってみると、飛び出る電子の運動エネルギーは、光の強さには関係ない。従って、どんな希薄な光線を用いても、このエネルギーが小さくなるということはなく、そのエネルギーの大きさは、光の色によって決まる一定の値をもっている。このことは光のエネルギーがその色によって決まるかたまりとして電子にぶつかることを意味している。光の干渉とか、回折とかいう実験を知らない人が、この実験だけを行ったとすれば、その人にとって、光とはエネルギーのかたまりの流れであるとしか考えられないであろう。現代の物理学者は、光線も電子と同様に粒子に似た性質をもった素粒子の流れであると考えている。この粒子を私たちは「光子」と呼んでいる。光子は一つ二つと数えることができ、普通の粒子と似た性質をもっている。
 他の素粒子、例えば陽子とか中性子とか、あるいは中間子とかについても全く事情は同じで、粒子と同じようにその数を数えることができる。

3 各々の素粒子は自己同一性をもっていない
 素粒子は砂の粒子のように数えることができるが、普通の粒子と全く違う性質ももっている。その異なる性質とは、各々の素粒子は自己同一性をもっていないということである。小さなボールが二つある。この時、私たちはボールの各々を第一のボール、第二のボールと区別することができる。そして、これらボールをどんなに混ぜ合わせても、第一のボールはいつも第一のボールのままであり、第二のボールはいつも第二のボールのままである。つまり、それぞれのボールは自己同一性をもっている。この時、それぞれのボールは互いに似ていても、どこかに違いがあり、私たちはこの違いによって、第一のボールと第二のボールを識別できる。全く同一に見えるボールでも、それはみる人に区別がわからないだけであって、実際には第一のボールと第二のボールはやはり違っている。それが普通の粒子である。普通の粒子一つ一つは自己同一性をもっているのである。
 では、二個の光子の場合はどうか。私たちは二つの光子の一方が太郎、他方が次郎と区別することがそもそもできないのである。素粒子は、物質構成の究極要素であり、同種類の粒子は、どの二つをとっても互いに全く同一の性質をもっている。だから、二つの素粒子は、みる人に区別がつかないだけでなく、区別を考えること自体が原理的にできないのである。つまり、素粒子の一つ一つは、自己同一性をもっていないのである。
 これは実験的に示すこともできる。それは素粒子の集まりの示す統計的な性質を調べてみればわかる。この種の統計的な議論に使われるのが確率論。この確率計算では、粒子が自己同一性をもつか否かによって、異なる値が答えになる。例として次のような問題を考えよう。二つの箱A、Bのなかに、ランダムに二個の粒子を入れる実験をしたとしよう。この実験を何千回、何万回と繰り返した時、ある時には二つの粒子が一方の箱Aの中に入るだろうし、他の時には他方の箱Bに二つの粒子が入るだろう。そして、第三の場合にはそれぞれの箱に粒子が一個ずつ入るだろう。この頻度を計算する。つまり、それぞれの場合の実現の仕方が幾通りあるかということを計算し、それをあらゆる場合の実現の仕方の数で割って、各々の場合の確率を計算する。今の例では、二つの粒子を二つともAの箱に入れる仕方は一通りであること、また二つの粒子の二つともBの箱に入れる仕方も一通りであること、さらに二つの粒子が一つずつAとBに入る仕方は二通りあることに注意しよう。この最後の場合が二通りであるというのは、太郎をAに入れ、次郎をBに入れるという仕方と、次郎をAに入れ、太郎をBに入れるという仕方と、合わせて二通りの仕方があるからである。こうして二つの粒子を 二つの箱に入れるあらゆる仕方の数は、合計で四通りになる。二つの粒子が二つともAに入る仕方は一通りであったから、それの起こる確率は1/4。同様に、二つの粒子が二つともBに入る確率も1/4、二つの粒子を一つずつAとBに入れる仕方は二通りであるから、その確率は1/2となる。ここまでは小学生でもわかる。
 ところで、この粒子として光子を考えてみよう。光子を箱に入れる実験を直接に行うことはできないが、これに相当することは、たくさんの光子の集まりを表す統計的な性質を実験することによって行うことができる。このような実験の場合は非常に複雑なので、ここでは仮に光子について実験したと考え、その時どういう結果が起こるかを述べてみよう。結果はこうである。光子の場合は、全体の1/3が二つの光子が二つともAの箱に入り、他の1/3は二つの光子が 二つともBの箱に入る。そして、残りの1/3の回数が二つの光子が一つずつAとBに入るのである。
 光子の場合、二つの粒子の二つともAの箱に入れる仕方が一通りあり、二つの粒子の二つともBの箱に入れる仕方も一通りある、という点ではボールと同じだが、最後に二つの粒子を一つずつAとBに入れる仕方の数がボールの場合と異なって一通りしかない。ボールの場合は、太郎をAに入れ、次郎をBに入れる という仕方と、次郎をAに入れ、太郎をBに入れるという仕方と、二つの可能性があったからである。これに比べ、二つの光子を二つの箱に入れる仕方が一通りしかないということは、光子に太郎、次郎の名をつけて区別してはいけないということを示している。このように、光子はそれを一つ二つと数えることができるという点でボールに似ているが、その一つ一つの粒子に名前をつけて互いに区別することができない、つまり光子は自己同一性をもたないという点でボールと異なっているのである。
 以上のことは光子以外の一般の素粒子についても同じである。このとき互いに区別できないということは、お互いが瓜二つで識別できないという意味ではなく、原理的に名前をつけられないことを意味している。
*光子の集まりの性質を統計的に捉えるとき、普通の粒子の集まりとは違った計算の仕方が必要なことに初めて気づいたのがインドの物理学者ボース。この計算法がボース・アインシュタインの統計法と呼ばれる。粒子が電子であるときには、 それが自己同一性をもたないということからくるもの以外にもう一つ、光子と異なって、二つ以上の電子が同一の状態にあることができないという別の性質から、さらに異なった統計法が必要となる。この電子の場合の統計法がフェルミ・デュラックの統計法。なお、普通の粒子についてはマクスウェル・ボルツマンの統計法が使われ、これは私たちが日常生活で使う統計法である。

4 自己同一性をもたない「粒子」は存在できる
 私たちが普通に知っているものは自己同一性をもっている。どんなAについても、A=Aである。では、自己同一性をもたないものはあるのか。その例について、実は私たちは既に知っているのである。昔ビルの壁に電光ニュースがあった。それは大きな板の上一面にたくさんの電球をギッシリと取付けた仕掛けである。その上をニュースの文字が電燈の点滅によって流れていく。文字のような複雑なものは考えないで、この電球の一つを、例えば100ワットの電球で光らせよう。次にそれを消して、ただちにその隣の電球を100ワットで点けよう。次に、これを消し、また隣の電球を100ワットで点けよう…これを次々に行うと、明るさを変えない100ワットの光点が次々と板の上を動いていく。そのありさまは一定の性質をもった一つの粒子が板の上を動いていくのと全く同じにみえる。同様のことを二つの電球を点けて行うことができる。その時には、二つの光点が次々と板の上を動いていく。光点は一つあることも、二つあることもあるが、その数を数えることができる。この意味で光点は粒子に似た性質をもっている。二つの光点が次第に近づき、重なり合う時には、その電球を200ワットで光らせるようしておこう。そうすれば、それは、その場所に同時に、二つの粒子がやってきたのだと解釈することができる。この光点は数えられるという意味で粒子に似ているが、明らかにこの光点の各々に名前をつけて区別することはできない。
 さて、素粒子論において電光板の役目をするのは場である。素粒子は電光ニュースに現れる光点のように、場に起こる状態の変化として現われるものである。この状態の変化を支配する法則は場の方程式と言われ、数学的に表現される空間のなかには様々な場が存在していて、それぞれの場にはそれぞれ異なった素粒子が現われる。電磁場の現れとしては光子が、ディラックの場の現れとしては電子が、また湯川場の現われとしては中間子が現われるのである。

5 素粒子が空間のどの点にあるかということは定めることができる
 以上述べたように、素粒子は普通の粒子とは違うが、似た性質ももっている。その一つは、素粒子が空間のどこの点にあるか、ということを決めることである。したがって、素粒子がこれこれの点にあるということは意味をもっている。実際、私たちは素粒子の位置を定める実験ができる。前に蛍光板の実験の話をしたが、その実験では板の広い範囲が一面に光ることは決してなく、いつでも板のどこかの一点が光るのだった。板のどこかが光ったということは、その時に電子がそこにあったことを意味する。このように素粒子は空間内の一点にその位置を定めることができるという点で、粒子に似ている。

6 素粒子のもつ運動量とエネルギーの値は定めることができる
 もう一つ素粒子が粒子と似ているのは、その一つ一つがエネルギーや運動量の担い手になっているということである。実際、例えば紫色の光の光子一個は、0.0000000000052エルグのエネルギーと0.00000000000000000000017グラム・センチメーター/秒の運動量をもっている。光電効果のときにはこのエネルギーが電子に伝えられるので、これだけのエネルギーをもって電子が飛び出してくる。さらに電子の場合には、一つ一つが電荷0.00000000048静電単位と、質量0.00000000000000000000000000098グラムをもっている。これらの質量や、電荷やエネルギーの運動量は不可分のものであって、 その半分や1/3の電荷や質量をもった電子とか、その半分の紫の光子などは決して見つけられたためしがない。この意味で素粒子は不可分の粒子である。

7 素粒子はその位置と運動量とを二つ同時に定めることができない
 以上のような点で、素粒子は粒子に似ているが、ここに粒子と全く異なる点がある。素粒子についてその位置を定めることができ、あるいはその運動量を定めることもできるにかかわらず、一つの素粒子についてその位置がこれこれであり、かつ運動量がこれこれである、ということを同時に定めることはできない。すなわち、素粒子とは、粒子と異なって、空間のどこそこにあるという文と、運動量が何らかの値をもっているという文とを「かつ」という接続詞で結びつけたような文の主語になれるようなものではないのである。簡単にいえば、素粒子とは位置と運動量を同時にもつことのできないものなのである。前に素粒子は色をもつことができない、したがって、素粒子は、その色がこれこれであるという文の主語にはなれないといったが、ここでは事情がもっと複雑になる。なぜなら、素粒子とは、その位置がこれこれであるという文の主語にはなれるし、またその運動量がこれこれであるという文の主語にもなれるが、この二つの文を「かつ」という接続詞で結合させた文の主語にはなれないようなものである、というのである。くどいようだが、「この素粒子は位置Xをもつ」と「この素粒子は運動量Yをもつ」とはそれぞれ主張できるが、「この素粒子は同時に位置Xと運動量Yをもつ」とは言えないということである。

8 素粒子は運動の道筋(軌跡)をもつことはできない
 電子や光子その他の素粒子がその位置と運動量とを同時にもつことができないということから帰結する結論の一つとして、素粒子には運動の道筋(軌跡)がないことになる。これは通常の粒子と電子や光子とが全く似ていない点である。ボールも太陽も運動すれば、その軌跡や軌道があるが、電子や光子にはないのである。このことはまた、電子や光子が電光ニュースの光点とも似ていないことを意味する。実をいうと 運動の道筋を性質としてもたないものは素粒子ばかりでなく、複合的な粒子である原子核や原子もそうである。こういうものをわれわれは量子的な粒子と呼ぼう。これらのものは運動の道筋をもっていないのであるから、その行動を通常の力学で表現することができない。なぜなら、力学はまさに運動の道筋に関する理論だからである。こういう量子的な粒子の行動を律する理論は量子力学と呼ばれる。量子的な粒子については、その位置がしかじかで、かつ運動量がこれこれということができない、と言ったが、実際にその位置と運動量とを一緒に決める方法を私たちは知らない。

9 電子や光子の状態はベクトルで表現される性質のものである
 これまで常識では理解しがたい電子や光子の振舞いを見てきた。それでは、この奇妙な振舞いを支配する法則はどのようなものなのか。これらの法則を整合的にまとめ上げたシステムが量子力学という物理理論で、この理論では電子や光子の奇妙な性質が少しの矛盾もなく数学的に表現されている。この量子力学のシステムは数学的であるが、それは、この種の奇妙な振舞いを矛盾なく表現するにはどうしても必要なのである。というのも、電子や光子のように、私たちが知っている普通の粒子と全く異なるものの振舞いを述べるには、私たちの日常的な言葉を使ったのでは不可能だからなのである。なぜなら、自然言語(natural language)は日常的な常識や考え方と密接に結びついていて、素粒子のような日常的なものとは全く異なる奇妙なものの振舞いを記述するには、適切ではないからである。日常的な考え方や表現から全く自由な、より純粋な人工言語を用いなければ、素粒子の振舞いの記述はできないのである。自然言語から独立した、自由で純粋な言語が数学である。量子力学が数学的になる理由はここにある。
 この数学的理論(無限次元のベクトル空間論)をここに詳しく述べることはできないが、この理論によって、如何にして光子や電子のもつ奇妙な性質を記述することができるかを、二重スリットの実験を例にして示しておこう。普通の粒子は、Aの穴を通るか、Bの穴を通るかのどちらかであって、Aを通ればはBは通らないし、Bを通ればAを通らないはずである。これに対して、電子や光子は、AかBかの一方だけを通るとは限らず、別の通り方、すなわちある意味でAとBとの 両方を一緒に通ることができる。この時、光子や電子が不可分のものであるならば、常識的にこれらのものが二つに分かれて両方を通ると考えるわけにはいかない。では、二つに割れることなく一個のものが両方の穴を通るのは、どのようにして可能なのか。
 この問いに対して量子力学は次のように答える。日常世界では、Aを通るということと、 Bを通るということを、いわば同じ次元において並立的に考える。例えば、一つの直線上で、中心を決め、右と左とを考える場合、中心から左でなければ右、右でなければ左である。これに対して量子力学では、Aを通るということと、Bを通るということとが、いわば異なる次元に対応していると考える。ちょうど、空間内でX軸とY軸が次元を異にするように。この時には空間内にX軸方向でもなく、またY軸方向でもない、中間の方向がいくらでも存在する。一つの光子が、Aを通ることと、Bを通ることとを、異なる次元において考えれば、このAを通ることと、Bを通ることとの、いずれとも異なった別の通り方が、X軸とも、Y軸とも異なった別の方向が存在するのと同様な意味で、可能となる。すなわち、Aを通ってBを通らないという可能性はX軸方向のベクトルに対応させられ、Bを通ってAを通らないという可能性はY軸方向のベクトルに対応させられる。そして、この二つの可能性のほかに、ある意味でA、B両方を通るという可能性は、X軸とY軸との中間の向きをもったベクトルに対応させられ、こうして電子や光子の不可分性と矛盾なく両方を通るという可能性が存在できることになるのである。
 実際、量子力学においては、電子や光子の状態を一つのベクトル空間中のベクトルを使って表現する。今の場合は、Aを通るということと、Bを通るということとの二つの可能性だけを問題にとりあげたが、一般に電子や光子が空間のいろいろな点に存在することができるので、その可能性に応じて無数の軸をもったベクトル空間を想定する。つまり、私たちの簡単な例では、Aを通ることに対応してX軸を、Bの通ることに対応してY軸を考え、この二本の直交軸で作られる二次元のベクトル空間を考えたが、実際は電子や光子が空間のあらゆる点に存在する可能性をもっていることに応じて、無限にたくさんの直交軸をもつような、無限に次元数の多いベクトル空間を考えねばならない。そして、このベクトル空間の中における任意の方向のベクトルが、その電子や光子の状態を表すのである。ここでAにあるという可能性に対応した軸を、例えばA軸と名づければ、電子がAにあるという状態とは、そのベクトル空間の中で状態を表すベクトルが、ちょうどA軸の方向に向いていることである。また、Bにあるということは、そのBに対応するところの、例えば、B軸と名づける方向にその状態ベクトルが向いていることを意味する。さらに、A軸とB軸との中間の方向にそのベクトルが向いている時には(あるいは、そのベクトルがA方向にもB方向にも成分をもつ時には)、電子や光子は Aにあるとも、Bにあるとも言えずに、AとBとの両方に一緒にあると言わねばならないのである。
 この時、空間にある無数の点A、B、C、…に対応して、ベクトル空間内には、A軸、B軸、C軸、…と無数の軸が存在するが、ベクトルがちょうどこの軸のどれかの方向に、例えば、C軸の方向に向いていたとすれば、それは電子がCという場所にあることを意味する。逆に私たちが、電子の位置を定める実験を行って、Cという場所にそれを見出せば、その時は、 そのベクトルはちょうどC軸の方向に向いていることになるのである。
 ベクトルがどの軸の方向にも向いていないことがある(例えば、三次元空間でX、Y、Z軸のどれとも一致しない方向のベクトルが考えられるように)。その時には電子は、空間のどこかある特定の場所に存在するということはできない。この時その電子はいろいろな場所に一緒に存在すると考えなければならない。
 ここに 述べたことは、量子力学の基本的な考え方のほんの一部分のスケッチに過ぎない。だが、素粒子が、私たちが日常的に考えている粒子とは非常に異なったものであるということはわかってもらえたと思う。

10 まとめると
 電子や光子やその他の素粒子は通常の粒子とは非常に異なったものである。それは自己同一性をもたないという点で、電光ニュースの光点のようなものであるが、 さらにまた運動の道筋、軌跡をもたないという点で、この光点とも異なったものである。
 だから、素粒子は電光ニュースに似ているという点で、それは場の方程式で記述されることになるが、この時の場はかつての物理学者の考えた場の考え方をそのままもってくることはできない。それで素粒子の状態をベクトル的に考えるという立場が採用されることになった。私たちは、場の考えと状態ベクトルの考えとを、うまく組み合わせて素粒子の理論を作りあげ、それが現在素粒子論と呼ばれるものなのである。
 こうしてできた素粒子論は、素粒子のいろいろな性質、特に日常的な考え方からは説明ができない奇妙にみえる性質をうまく説明してくれる。そういう意味でこの素粒子論は非常な成功をおさめた。だが、この素粒子論は、いろいろな素粒子の間の関係、相互作用の仕方などの問題にはまだ満足な答えを与えてくれない。この素粒子論はまだ暫定的で、究極的なものではない。

 さて、最初の問いに戻ろう。それらは次のような問いだった。

(1)素粒子は粒子なのか。
(2)素粒子は粒子として表象できるのか。

(3)見えないものについてそれが何かを知ることができるのか。
(4)見えないものを見えるものとして表象できるのか。
(5)見えないものを表象するとはどのようなことか。

(1)について、素粒子は小さな粒という意味での粒子ではなく、粒子擬きのものである。だから、(2)について、粒子としての表象は表象擬きに過ぎない。自然言語にある語彙で最も近いように見えるのが「粒子」という語彙であるに過ぎなく、量子力学での素粒子は粒子として表象したのでは誤表象となってしまう。
 (3)についてはYes。だから、私たちは見えない素粒子について知ることができる。(4)は不可能。工夫して表象しても、せいぜい近似でしかない。(5)の表象とは数学的表象であり、自然は数学という言語で書かれ、その語彙を「数学的に表象する」(モデル)ことが見えないものを数学的に表象する、モデル化することである。
 ユークリッド幾何学を学び、点、線、図形を簡単に表象できると思ってきた。だが、点を表象することができるのか。上の(4)より、それは不可能。同じ理由で、線も図形も表象できない。だから、点ではない点擬きの表象、線擬きや図形擬きの表象を点、線、図形の表象だと近似してきたのである。古典力学の質点はこのような点であるから、質点は自己同一性はもつが、運動の道筋は近似的なものに過ぎないことになる。
 では、点や線の表象とはどのようなものだったのか。小学生でも知っているようなことなのだが、美術の大先生に聞いても、点や線の表象はよくわからない。その元凶はユークリッド幾何学の点の定義にある。点は部分をもたず、それゆえ大きさがないものである。確かに、数学的な点はサイズがなく、線は太さがないことになっていて、物理的な存在ではない。だから、それらを表象しようとなると途方に暮れるのである。プラトンイデアを表象せよと言われて誰も困らないようなのだが、実は大いに困ってほしいのである。人間の表象となれば、一人の人間かせいぜい複数の人間たちの表象である。では、人間のイデアは一体何を表象すればいいのか。表象ができないとなれば、人間を意識できないことになる。これは重大なことに見えるが、実はそんなことはなく、人間自体を表象できなくても人間に関する議論はしっかりできるのである。
 したがって、点や線を表象できない、意識できないということになっても、心配する必要はなく、点や線を使って推論し、その結論を適用することができるのである。つまり、表象できるか否かは、理論的に現象を説明するためには不可欠のものではないのである。記号関係を表象できなくても、その関係を使って計算することはでき、その結果だけを表象することもできるのである。
 世界を知ることは世界を知覚的に表象することではない。私たちは表象を知るのではなく、世界を知るのであり、知覚的な表象は知るために不可欠のものではない。