雑談「熊坂長範」(2)「烏帽子折(えぼしおり)」の曲芸と身体性

 大雑把に言うと、能には世俗世界を扱う現在能と、幽霊世界を描く夢幻能があります。「烏帽子折」は現在能、「熊坂」は幽霊能と分けることができます。「熊坂」のシテは亡者(=死人)であり、今は「幽霊熊坂」と呼ばれています。主人公は自分が幽霊でありながら、祟(たた)ることなく自らの生前の行いを懺悔し、苦悩を述べます。能の幽霊は歌舞伎と違って祟りません。他者を恨み、祟る亡者ではなく、自省する亡者なのです。「熊坂」には、夢に出た亡者が苦悩を吐露し、仏教による救済を求めというパターンが色濃く出ています。これは苦しむ死者、懺悔する神を仏教によって救済するという神仏習合なのです。

 烏帽子は男性の冠物(かぶりもの)で、上部を折り曲げて作るところから「烏帽子折」は烏帽子を作ること、またその職人を指します。「烏帽子折」は宮増の作品で、宮増には分らないことがたくさんあります。個人ではなく集団の名だという説もあります。他にも多くの作品が残っていて、いずれも演劇的な構成が特徴です。この「烏帽子折」も台詞を中心にして演劇的な展開を持ち味にしたダイナミックな作品です。

 そのテーマは義経東下りで、源氏の烏帽子折の逸話と熊坂長範との戦いとを絡ませています。義経東下りには、金売吉次が同行することになっていますが、この曲でも吉次は前半で登場し、牛若丸を世話します。でも、後半になると吉次は消え、牛若丸が一人で長範らに立ち向かい、屈服させてしまいます。少年の牛若丸が大の男たちを切り伏せるところが痛快な能です。

 この曲は、前シテが烏帽子屋の亭主、後シテが熊坂長範で、前後でシテが入れ替わり、しかも烏帽子屋と熊坂長範ですから、互いに何の関係もないのです。また、どちらも現在進行形の役柄である点で、世阿弥の複式夢幻能とは対極的です。牛若丸は子方の役ですが、事実上はこれがシテと変わらぬ役を果たしています。

 追っ手の目を欺こうと元服して髪を切り、烏帽子をつけることを思いつき、烏帽子屋を訪れた牛若丸は何としても左折のものを所望します。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を烏帽子屋は不振に思います。左折の烏帽子について語るうちに烏帽子が出来上がります。烏帽子をつけた牛若の姿はたいそう気高く立派です。そして、烏帽子の代金に、持っていた刀を渡しますが、あまりに見事な刀に驚き、烏帽子屋は妻を呼び寄せます。この妻は実は、源義朝に仕えた鎌田正清の妹であり、その刀は自分が使者として牛若丸が生まれたときに渡したものでした。そして、夜明けとともに牛若は奥州へと発つのです。

 牛若たち一行が赤坂宿に着くと、悪党熊坂長範たちが夜討ちにやってくるらしいということが知らされます。吉次たちは早々に宿を発とうとしますが、牛若は自分が斬り伏せるととどまらせ、夜襲に備えます。そこに熊坂の配下の小盗がやってきます。牛若を見つけ、松明を投げ入れると、宙で切り落とされ、踏み消され、投げ返されます。そして、熊坂と手下たちがやって来ます。手下たちは牛若と戦って切り倒されます。そして、熊坂も切り倒されるのです。

 「烏帽子折」は現在能で、幽玄とは反対の身体運動が強調されます。バレエに身体性を強調するダンスが不可欠であるように、現在能の舞台で舞うには武芸に通じたアクロバティックな身体的な運動が不可欠なのです。牛若と長範の争いが曲芸の如くに演じられ、人々は演者の巧みな身のこなしに驚嘆するのです。でも、これが幽霊能の「熊坂」になると、違った側面が見えてきます。

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能楽図絵」「烏帽子折」、耕魚画、明治33年

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能楽図絵」「烏帽子折」其二、耕魚画(落款印章湖畔)

 

クズの花

 湾岸地域の雑草中の雑草は何かと尋ねられれば、私なら迷わずクズとヤブガラシを挙げる。両者の優劣はつけ難いのだが、クズの方が目立つというのが私の印象。クズは蔓性の半低木で、北海道から九州までの山野で普通に見られる。基部は木質、上部は草質となり、長さ10mに達し、時には周りの木を蔓で覆ってしまう。根は長大で、多量の澱粉を蓄え、主根は長さ1.5m、径約20cmに達する。

 紅紫色の花の開花時期は7、8月から9月末頃までだが、まだ咲いているものもある。「葛」は、秋の七草の一つで、万葉集古今和歌集にも登場し、古くから人々に親しまれてきた。また、根を乾燥した葛根(かっこん)は漢方で解熱薬として利用されてきた。クズの花は葉の脇から総状花序(柄のある花が花茎に均等につく)を出し、蝶形の花をたくさんつける。花には甘い香りがある。夏から秋にかけて、紅紫色の花が穂のように咲き、その後結実してエダマメのような実をつける。大和の国(奈良県)の国栖(くず)が葛粉の産地だったからの命名で、漢字の「葛」は漢名から。

 クズの根からつくるのが葛粉。白い葛粉ができるまでは、根を潰し、水に入れて濾し、その後も何回も水をかえてくず粉を沈殿させ、その粉を乾燥させるという手間がかかる作業が必要。だが、今では手作りの葛粉をつくる家庭はなくなり、本葛粉は減少している。

*奈良の吉野地方では本葛採集用に選抜されたクズを長年栽培していて、混じり気のない葛粉100%のものは「本葛」と呼ばれる。

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雑談「熊坂長範」(1)

 熊坂長範は幸若舞、能、歌舞伎、御伽草子等々で取り上げられ、様々に語られ、演じられてきました。大泥棒の長範ですが、十か所以上の出身地があり、実在したかどうかさえ定かではありません。私は古典芸能など素人ですが、大学時代に能のクラブにいましたので、能の中の熊坂長範の雑学を話してみましょう。
 まずは歴史的な事実の確認です。1156(保元元)年7月に起こった「保元の乱」は、皇位継承の朝廷内の内紛が原因で、後白河天皇崇徳上皇の分裂に源氏と平氏の武力が加わった政変です。この乱で活躍したのが後白河天皇側の義朝です。義朝の作戦に従った後白河天皇方は、崇徳上皇を襲撃して勝利を収めます。平清盛は義朝側で戦いました。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、源為義は斬首、源為朝伊豆大島に流されています。
 1159(平治元)年12月の「平治の乱」は、「保元の乱」によって生じた朝廷内での対立から起こります。「保元の乱」後、後白河天皇天皇親政を行い、そこで権勢を誇ったのが信西でした。後白河天皇皇位二条天皇に譲ると、信西藤原信頼が対立します。一方、源氏と平氏の間でも、保元の乱での勲功第一の源義朝より、戦功の薄い平清盛の方が高い恩賞を受けていて、義朝の不満が増大していました。信頼と義朝は、清盛が熊野詣に出掛けている隙に、後白河上皇二条天皇を幽閉し、信西邸を襲撃します。しかし、清盛は急ぎ帰洛し、二条天皇六波羅邸に移し、信頼・義朝追討の宣旨を賜り、信頼と義朝を破ります。この戦いに勝利した清盛は平氏政権の基礎を築くことになります。
 「平治の乱」は13歳の源頼朝の初陣でした。しかし、結果は源氏の大敗に終わり、平頼盛の追手によって捕らえられます。父義朝は尾張国野間で長田忠致に暗殺され、兄の義平、朝長も討死しました。清盛は、頼朝を処刑するよう命じますが、清盛の継母池禅尼の懇願によって一命を助けられ、伊豆国へ流されます。弟の希義・今若(全成)・乙若(義円)・牛若(義経)もそれぞれの地に流されます。
 この頃活躍した熊坂長範はあちこちの熊坂(例えば信濃町の熊坂)の出身とされています。中山道などで旅人の金品を奪っていたようです。金売吉次義経が奥州に向かうことを知り、熊坂長範は手下を揃えて宿を襲います。ところが牛若丸は滅法強い。たちまち多くの部下が切られます。熊坂長範は長刀を引き抜いて牛若丸に挑みます。ところが、牛若丸は一刀のもとに熊坂の首をはね、あまりに鋭く切られたので、長範は切られたことにも気づかず、逃げる途中で喉のかわきを覚え、水を飲もうとしたとき、初めて頭が落ちたとのこと。別の話では、熊坂長範は、改心し名僧になったという話もあります。
 さて、熊坂長範が主人公の能の演目は「烏帽子折」(えぼしおり)と「熊坂」(くまさか)の二つです。金売吉次が長範に襲われ、吉次と同行していた牛若丸が長範を討ちます。その物語が「烏帽子折」で、その後日談が「熊坂」です。
*錦絵は月岡芳年の『芳年武者无類(よしとしむしゃぶるい)』の「源牛若丸・熊坂長範」です。

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ハナミズキの赤い実

 ハナミズキ(花水木)は、ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。ハナミズキの名は、ミズキの仲間で花が目立つことに由来する。また、別名のアメリヤマボウシの名は日本の近縁種のヤマボウシに似ていることから。

 ハナミズキは北アメリカ原産でアメリカを代表する花の一つです。ハナミズキが日本へ入ってきたのは明治時代。ワシントンにソメイヨシノを送った返礼として日本にやってきました。白や赤のハナミズキの花は4月から5月にかけて開花します。

 子供の頃ハナミズキを見た記憶がなく、中年になって急にハナミズキが増え、今ではどこでも見ることができます。

 赤くつやつやしたハナミズキの実は、冬に向かう街並みの中で鮮やかに目立ちます。あまりにもつやつやしているのでとても美味しそうですが、渋みが強く、私たちにはおいしくありません。10月13日に書いたヤマボウシの実(画像)がジャムにすると美味しいのとは好対照です。でも、鳥たちには人気で、ヒヨドリムクドリオナガなどが好んで食べます。

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ヤマボウシ



サルスベリの花々

 湾岸地域ではまだサルスベリの花を見ることができます。サルスベリは新梢を伸ばしながら枝先に花芽をつくり、夏から秋にかけて次々と開花します。枝の生育にばらつきがあるので、「百日紅」の名前通り、開花期が長期間となり、それで今でも花を見ることができます。そして、その花の色は実に豊富です(画像は様々な色の一部)。

 最近は落葉小高木のサルスベリの矮性の品種を見かけることが多くなりました。矮性サルスベリ「チカレッド」はその代表例です。チカレッドの花は鮮やかな紅色です。樹高が約30cm、幅が約40cm程度です。矮性のものは最終的な樹高が1m前後ほどなので、通常のサルスベリが植えられない狭い場所にも植えることができます。

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二つの言葉

 科学や数学の理論を表現する言葉と宗教や倫理の信念を表現する言葉は違うのが普通ですが、どのように違うのでしょうか。科学や数学の言葉の代表例として古典力学ユークリッド幾何学の言葉を挙げることができます。ユークリッド幾何学の公理系、古典力学の三法則の表現を頭に思い描けばいいでしょう。これらの表現が時代と共に、時代に即して変化してきたなどとは誰も思わない筈です。何千年たっても平行線の公理は同じことを主張しています。それらは時代や状況とは独立した不変の内容をもつものだと考えられているからです。一方、宗教や倫理の代表例としてキリスト教の聖書、仏教の経典、儒教の古典などを挙げることができます。聖書や経典は様々に異なる言語に翻訳され、時代が変わるにつれて、その翻訳が変わり、解釈も様々に変わってきました。聖書や経典は不変の内容をもつと自明の如くに言われているのですが、実は時代や状況に応じて変わる部分を多く持っているのです。

 このような違いが生まれた要因の一つが、使われる言葉の違いです。数学や物理学の言葉はつまるところ「形式言語」であり、数式に代表されるように一義的な意味を持っているのが普通です。いつでもどこでも誰によっても、同じように解釈され、曖昧さはまずありません。これは20世紀に明白になったことです。ところが、宗教や倫理の言葉は「自然言語」であり、その自然言語自体が時代や場所によって変化してきました。それゆえ、それら変化する言葉で述べられ、語られた内容はやはり時代や場所に応じて変わってきたのです。その言葉の変化が宗教や倫理の内容上の変化に大きな影響を及ぼしてきたのです。

 様々に解釈される宗教や倫理の内容は長い歴史の中で大きく変化してきました。不変の筈の宗教教義が実は大きく変化してきたのです。なんとも皮肉な話なのですが、世俗の世界が変化するために、それに合わせるようにして永遠で普遍の世界も変わらざるを得ないのです。ですから、例えば聖書の翻訳は何度も時代に合わせて訳され直され、内容が時代に合わせられてきました。

 古典文献の注釈や解釈は、法律の解釈に似て、時代や地域の変化に応じて変えられてきました。そんな人間業を許さないのが科学や数学の理論で、その解釈はモデルを作ることと同じであり、モデルは決して勝手な解釈ではありません。その中間にあるのが哲学理論で、プラトンアリストテレスからデカルト、カントなど、多くの哲学理論はある部分は数学理論と同じように、別の部分は経典解釈のようにモザイク状に解釈が重ねられてきました。テキストをどのように理解するかとテキストについての歴史的な研究の違いとが互いに混じり合って事態を一層複雑にしてきたのです。

 テキストの改訳によって何が変わったのかを見定めることはテキストの内容についての私たちの態度を見事に示してくれます。聖書の改訳によって不変なもの、可変なものが明らかになるとすれば、可変なものは些細で枝葉末節のものの筈です。でも、そのように単純に割り切れないのが宗教や倫理のテキストなのです。改訳によって重大な違いが生じたとなれば、旧訳は間違いだと断定されるのです。ですから、改訳は些細なミスの修正でなければならないのです。ところが、そのようにはなっていないのも歴史的な事実です。なんとも奇々怪々なことです。

オオモクゲンジの実

 オオモクゲンジ(大木欒子)は中国原産で、ムクロジ科モクゲンジ属の落葉広葉高木です。別名はフクロミモクゲンジ(袋実木欒子)。モクゲンジより葉が大きいことから名前がつきました。本州中部以西に自生し、夏から秋にかけて、枝に黄色の小花を横向きに多数咲かせます。残念ながら花は既に終わっていましたが、たくさんの実がついていました(画像)。実はふくらんだ3室の袋状です。

 とても大きくなる木で、高さ20mほどになります。9月頃に大型円錐花序に金色の小さい花を沢山付けるのに対して、モクゲンジは7月頃に花を付けます。袋状の実は3枚の葉が葉脈をくっつけ合ったような形をしており、各々の葉状の面の中央に実を付けます。

 画像は台場のもので、都内では小石川植物園、東大キャンパスにあります。

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