フヨウの花

 気がつけば、フヨウ(芙蓉)の花が咲き出している。確かに既に真夏で、オリンピックも始まっている。この暑さなど何のそので、フヨウは元気に花をつけている。

 フヨウはアオイ科フヨウ属の落葉低木。夏に直径10-15cm程度のピンクや白の花をつける。朝咲いて夕方にはしぼむが、毎日次々と開花する。花は他のフヨウ属と同様な形で、花弁は5枚で回旋し椀状に広がる。フヨウ属は湾岸地域に多く植えられていて、ムクゲハマボウスイフヨウアメリカフヨウ、そしてハイビスカスと色んな花が咲いている。

 先端で円筒状に散開するおしべは根元では筒状に癒合していて、その中心部からめしべが延び、おしべの先よりもさらに突き出している。そのめしべの先が上向きに曲がっているのがフヨウ、真っ直ぐ伸びているがムクゲ(赤いフヨウと白いムクゲの画像を比べてほしい)。

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ムクゲ

 

Unified by Emotion:奇妙な符合

 「Unified by Emotion」は「心でつながる」ことだと解説されると、ぎょっとするのは私だけではあるまい。その上、「感動で結ばれる」、「感動の共有」から「心で結ばれる」を通って、「人の絆」にまで結びつけるなら、何でもありの言葉の魔術としか言いようがなくなる。伝言ゲームの最初が「United by Emotion」、最後は「心の絆」。こうなると、成程と唸るほどの言葉の悪だくみ、悪用が透かして見えてくる。

 スポーツの感動の根幹にあるのは言葉による感動とは違う言葉にならないものの筈である。一観客に過ぎない私にとってのスポーツの感動は、競技と競技者のパフォーマンスに対する歓喜や落胆である。一方、コロナ感染症のニュースも不安、恐怖といった感情を人々にもたらす。これら感動も感情も、いずれも確かにemotionである。オリンピック競技を観戦し、そのパフォーマンスに歓喜し、落胆、失望するとき、私たちはそれら感情を他人と共有するのである。ニュースで感染者数や重症者数、死亡者数を知り、不安や恐怖をおぼえるとき、私たちはそれら感情をやはり他人と共有するのである。つまり、スポーツとニュースのいずれの場合も、私たちはその内容について様々な感情を共有する(unified by emotion)のである。

 スポーツはルールに従った勝負であり、医療が知識に基づく治療であるとすれば、それらは見かけと違って、実はよく似ているのである。勝負がもたらす歓喜や落胆の感情、病気がもたらす不安や恐怖によって人々は結びつけられ、同じ感情を共有することになる。スポーツは生を、病気は死を背負い、それゆえ、共に言葉を超えた生と死とについての感情体験を根幹にもっているのである。言葉で表現される喜びや悲しみを超えて、生死の感情自体を示現する大きな二つの手立てがスポーツと病気なのである。

 言葉を操る元オリンピアンの解説を信じるより、生が躍動する運動行為のもたらす感動を直接に共有することは、恋の感情に似て、言葉を超えたものを持っている。死については改めて言及する必要はないだろう。生と死への感情は言葉を超えたものを含み、それを忘れたのでは生と死の本質は掴み切れないと思われてきた。

 とはいえ、言葉の役割も軽くはなく、コロナ感染症に対処するには言葉による繋がり(Unified with language)が不可欠である。さらに、それを超えて、言葉によらない繋がり(Unified without language)も必要であり、それゆえ、Unified by KnowledgeとUnified by Emotionの共存が当たり前のように信じられてきた。

 コロナとオリンピックが共に現存していることに対する私たちの生活世界の背後には、私たちが感情によってつながって(Unified by Emotion)おり、様々な知識、情報、言葉を超えた生と死への喜びと悲しみが共存し、絡み合っていることを忘れてはなるまい。

台風一過の蝉の声

 昨日の朝方は台風のために雨が降り、風が吹く中で女子のトライアスロン競技が始まった。昼前には風雨がおさまり、青空と太陽が戻ってきた。すると、一斉に蝉の声が聞こえだし、大合唱が始まった。梅雨が明けて既に蝉の声はあったのだが、台風一過、蝉時雨となった。

 「雨あがり 夏の陽戻る 蝉時雨」と呟きながら、聞き入れば、クマゼミアブラゼミ、そしてミンミンゼミの合唱があちこちの木々から聞こえてくる。蝉たちの気象変化への反応の鋭さを感じたのは一斉の合唱だけでなく、2時間ほど後にはすっかり鳴き声が小さくなったことである。つまり、湾岸地域で私がいつも聞く正常の鳴き声状態に戻ったのである。

 実際のところ、セミはオスだけしか鳴かない。雨はセミの天敵のようなもので、メスが飛んでこないで、気温も下がるため、オスは鳴かないのだと説明される。さらに、雨があがり、日が差し、気温が上がると、オスたちが一斉に鳴き出すというのである。

 こんな説明より、大合唱は自然の一瞬を適確に掴んだ蝉の青春の謳歌であり、凛とした夏の一瞬を蝉たちは本能的に掴んだのだと思いたくなる。雨あがりの清々しい夏の僅かな時間を蝉たちが敏感に感じ、それに短い命を共鳴させ、大合唱になったのだと夢想したくなるのである。

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ヤマハギの花

 マメ科ヤマハギ(山萩)は山に普通に咲くハギ属の一つで、日本各地の山野に生える落葉半低木。秋の七草の一つとして古くから日本人に親しまれてきた。『万葉集』にも萩を詠んだ歌が130首以上収められている。ハギは秋の七草なのだが、草ではなく木である。全国各地の日当たりの良い山野に生える。密集した枝にこまやかな花がたくさん咲き、風に揺れる様は趣があり、これまで和歌や俳句によく詠まれてきた。6月から9月にかけて咲く花は直径1センチ程度の小さな蝶形で、マメ科の花の特徴をもっている。花期は長く、満開がはっきりしないまま、次々と咲き続ける。

ヤマハギの花の色は赤紫色だが、白い色の花をつけるヤマハギがあり、シロバナヤマハギ(白花山萩)と呼ばれる(画像)。 シロバナハギも白い花をつけるが、こちらはミヤギノハギの変種で種類は別。だが、ヤマブキの場合、シロバナヤマブキはヤマブキだが、シロヤマブキはヤマブキではない。なんとも厄介な名前の違いである。

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オミナエシの花

 オリンピックが始まり、暑さが続いている中、花盛りなのがオミナエシ(女郎花)。オミナエシ秋の七草の一つで、日当たりのよい草原に見られる植物。数本の茎をまっすぐに伸ばして株立ちになり、先端に多数の黄色い花を咲かせる。花房は全体で15~20cmほどの大きさがある。6月から9月にかけて花を開き、花が終わっても色を保つため、長い期間楽しめる。白い花のオトコエシ(男郎花)との間に、まれにオトコオミナエシ(男女郎花)という雑種をつくることがある。

 もち米でたくごはん(おこわ)が「男飯」であるのに対し、「粟(あわ)ごはん」のことは「女飯」と呼ばれ、花が粟粒のようで、黄色いことから「女飯」→「おみなえし」となった、という説がある。漢字で「女郎花」と書くようになったのは平安時代中期からと言われている。オミナエシもオトコエシも共にオミナエシ属で、交配可能となれば、でき上がるのが男女郎花。今なら、女男郎花と呼ぶべきか。

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多様な掛け声の不調和

 今回のオリンピックには掛け声が妙に多い。その最初が「復興五輪」。延期が決まり、大会のビジョン、モットー、テーマ、理念などと呼び名が変わる度に、掛け声の表現も違った風に登場し、お互いの関係などわかる筈もなくなってしまっている。

 「心でつながる」と言われて、ぎょっとするのは私だけではあるまい。「感動で結ばれる」、「感動の共有」から「心で結ばれる」を通って、「人の絆」にまで結びつけるなら、何でもありの言葉の魔術としか言いようがない。伝言ゲームの如くで、「United by Emotion」がその最初の表現。それが様々に解釈されることになり、終には「絆」に達すると、成程と唸るほどの言葉の悪だくみ、悪用が透かして見えてくる。スポーツの感動は言葉による感動とは違う無言のものの筈である。

 「多様性と調和」は今回の基本コンセプトと言われるが、この表現自体が多義的に解釈できて、「違うものでも一緒になれる」を意味するならば、呉越同舟ではないかということになる。基本コンセプトだと押し付けられると、調和できないから多様なのではないかと青臭い文句も言いたくなってしまう。

 これらに準じて、便乗モットーやテーマも盛りだくさんで、正に「船頭多くして船山に上る」である。その乱雑さの故か、オリンピックは難民の参加から個人の参加まで認め、プロ・アマの垣根はなくなり、その一方で国別のメダル獲得競争を一心不乱に焚きつけるという不思議な競技大会なのである。

 自明のことだが、クーベルタンとは違う思想をもつ新しいリーダーが求められている。

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コブシの新芽と実

 コブシのグロテスクな実が早くも色づき始めている。そして、その実の横にはネコヤナギに似た新芽が出て、青葉の中で共存している。実が赤くなり始める時期に既に芽が出ていることを私は知らなかった。コブシは花が美しいだけではなく、実も芽も面白い。

 コブシは北海道から九州までの山林や原野に自生するモクレン科の落葉広葉樹。早春に香りのある白い花を咲かせ、春の訪れを告げる里山の花木で、演歌にも歌われている。葉が大きくて木陰を作りやすいため、街路樹や公園樹としての利用も多く、湾岸地域でもよく見ることができる。コブシの開花は3月下旬~4月上旬で、ソメイヨシノより早い。

 実は長さ10センチ前後に及ぶ集合果。コブシという名前は、子供の握り拳に似る果実に由来するが、果実の形は個体差が大きい。コブシの蕾や実は噛むと辛みがある。別名の「ヤマアララギ(山蘭)」や古名の「コブシハジカミ(辛夷椒)」はこれに因む。

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