ラナンキュラスの花

 ラナンキュラスは幾重にも重なった、明るい花弁が魅力的な秋植え球根。最近は花の色や形が改良され、香りのよい品種がつくり出されている。そのラナンキュラスの花が道端の花壇に見事に咲いている。
 「ラナンキュラス」と呼ばれているのは、中近東からヨーロッパ南東部にかけての地中海性気候の地域に分布するラナンキュラス・アシアティクスを中心に改良された園芸品種で、秋から春にかけて生育する。アシアティクスは花色豊富で八重咲きもあり、大きな花はボリュームたっぷり。葉はキクの葉に似ている。

 ラナンキュラスの花は丸みを帯びたカップのような形をしていて、咲き方も多彩。ラナンキュラスの名前は、ラテン語の「カエル(rana)」に由来。和名は「ハナキンポウゲ」。明治時代に日本へ輸入され、現在は「ハナキンポウゲ」よりラナンキュラスと呼ぶほうが多い。

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二つの仏教:メモ

 仏教は釈迦が悟った内容に基づく宗教ですが、時代と共に色々な解釈が生れました。中でも、大乗仏教上座部(小乗)仏教の違いは特筆すべき違いです。

 「乗」の意味は乗り物で、「大乗」は「大きな乗り物」という意味です。では、「大乗仏教=大きな乗り物の仏教」はどんな仏教なのでしょうか。釈迦が亡くなってから、約500年程経ってから誕生したのが大乗仏教です。釈迦が入滅してから、その教えをどのように伝えていくか。間違った教えが伝わらないように、釈迦の弟子たち(特に十大弟子と呼ばれる直弟子)が中心となり、釈迦の教えを確認し合いました。そして、同じ考えを持つ人たちで組織を作るのですが、それが「教団」です。教団ができ、時が経つと、教団内のメンバーの中で、釈迦の教えの解釈が拡大していきます。その解釈の流派(学派)の一つが大乗仏教です。

  釈迦の入滅から、約100年後に大きな問題が起こりました。それは、お布施を金銭で受け取れるかという問題です。その解釈で、戒律を厳格に守る(金銭を受け取らない)派と現実社会(貨幣社会)に即して、受け取っても構わないという緩和派に分かれました。戒律派を「上座部(仏教)」、緩和派を「大衆部(仏教)」と呼び、この学派が、更に細かく分かれていきました。

 出家して厳しい修行をした、少ない人だけが悟りを得(真理を知っ)て、救われるという上座部仏教に対して、大衆(たくさんの人)を救うことを目指した考え方を、大きな乗り物に例えて、「大乗仏教」と呼ぶようになりました。

  大乗仏教上座部(小乗)仏教の違いをまとめると、次のようになります。

1大乗は、大きな乗り物のこと

2大乗仏教は、出家者だけでなく、大衆も悟りの道へ導くための教え

3大乗仏教ができた歴史

(1)釈迦が入滅後に、その教えを広めるために教団ができます。

(2)その時々の時代背景の影響を受けながら、教団の中で様々な学派ができます。

(3)大きな学派として、上座部・大衆部に分かれ、細分化(部派仏教)します。

(4)上座部の部派仏教から、出家者の覚りを重視する上座部(小乗)仏教が現れます。

(5)大衆部の部派仏教から、大衆も悟りの道を歩むことができる大乗仏教が現れます。

サンシュユの花

 サンシュユ(山茱萸)はミズキ科の落葉小高木で、春を告げるように咲き出した。サンシュユの漢字表記は山のグミを意味する「山茱萸」。ハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれ、中国と朝鮮半島が原産地である。享保年間(1720年頃)に薬用樹として日本へ渡来。ウメやマンサクなどとともに春一番に葉より先に開花する。その花色が鮮やかな黄金色になることから「春黄金花」とも呼ばれる。開花は2~3月で、小さな花が20から30輪ほど集まって咲く。

 サンシュユハナミズキヤマボウシと同じミズキ科に属しており、夏にはそれらと似たような葉になるが、サンシュユの葉の裏側には薄茶色の色の毛が目立つ。また、秋に熟す赤い実にはビタミンCが豊富に含まれ、現在でも健康食品や果実酒として利用されている。薬用になるのは主に種(核)の部分。

 リョウブのように剥がれ落ちる樹皮が特徴的で、花や実がない時でも観賞価値があるため、公園や庭に好んで植えられる。そのためか、近くの遊歩道にも何本か植えられていて、今花が開き出している。

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ミヤマガンショウ(深山含笑)

 今年もまたミヤマガンショウが花をつけた。子供の頃だけでなく、大人になっても見たことがなかったのがミヤマガンショウ。中国原産のモクレンオガタマノキ属の常緑高木。2~3月頃にハクモクレンに似た一重から二重の白色で芳香をもつ花が咲く。ハクモクレンにしては緑の葉があり、しかも開花も早いのが学名ミケリアマウディアエ(Michelia maudiae)の特徴。そして、その別名が「深山含笑」。

 どうして「シンザンガンショウ」ではないのかと訝りながらも、その名前は謎めいている。そこで素人推理。カラタネオガタマ(唐種招霊)は、中国南部原産のモクレン科の花木で、江戸時代に日本に渡来。トウオガタマ(唐招霊)とも呼ばれ、ミヤマガンショウと同じ常緑のオガタマノキ属。カラタネオガタマの花は、バナナのような香りがして、中国名は「含笑」、「含笑花」。花びらが全開しない含み笑いのような花の形からきていて、それがミヤマガンショウの由来ではないのか。兎に角、ミヤマガンショウは中国原産で、ハクモクレンと異なるのはミヤマガンショウが常緑ということ。

 これからモクレン科の木々が花をつけるが、中国のモクレン、日本のコブシ、アメリカのマグノリアのどれも甲乙つけがたしで、今年もまた十分に楽しめそうである。

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神仏習合瞥見

 神道と仏教についてどのように考えるのが適切なのか、素人の考えを述べて見ます。

 まず、神道には教義がありません。これは致命傷です。仏教に最初から白旗を挙げるようなものです。儀礼的な事柄が中心で、学術的な主張がない神道とは対照的に、仏教は洗練された知的な宗教システムをもっています。また、神道では神の数は無限と考えられていて、「外来の神」を否定することさえできません。神道は死を「ケガレ」として忌み嫌います。でも、仏教は死を忌み嫌うどころか、それを契機に解脱が説かれています。死者を弔うことに圧倒的に優れていたのが仏教でした。さらに、仏教は国を守る護国思想として政治的にも優位を占めることになります。また、先端医療技術を持ち合わせていたのは神道ではなく、仏教でした。例えば、仏教には「五明(ごみょう)」という専門領域があり、その中には数学、暦、医学、薬学と言った先端技術が含まれていました。

 最後に、仏教には天才的な僧が数多く存在します。中国や朝鮮半島から渡来した僧たちだけでなく、日本にも最澄空海、さらには法然親鸞日蓮といったスターが登場します。でも、それに対応する神主を挙げてみよと言われると、困ってしまいます。

 こうして、最初に述べた「教義」とそれに基づく知識や技術の存在が、神道と仏教の様々な違いを生み出してきたと言えるのですが、仏教全体をうまく利用したのが神道だと考えることができます。

ジンチョウゲ(沈丁花)の花

 ジンチョウゲの原産地は中国南部で、室町時代にはすでに日本でも栽培されていたらしい。ジンチョウゲは雌雄異株だが、日本にある木はほとんどが雄株。開花時期は、 2月末~3月末頃。湾岸地域でも少し前から咲き始めている。

 花芽は、前年の秋にはできているが、実際に咲き出すまでに寒い中、3ヶ月以上を花芽のまま過ごす。外側はピンクで内側は白い。外側、内側ともに白い種類はシロバナジンチョウゲト呼ばれる(画像は両方のジンチョウゲ)。

 香りは「沈香(じんこう)」に似ていて、葉の形が「丁子」という植物に似ているところから、「沈丁花」になった。遠くにいても匂ってくる。香りで思い出すのは秋のキンモクセイだが、キンモクセイと同じようによく香る。

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戸隠神社と関山神社

 二つの神社に共通するのは、共に神仏習合の典型例であり、修験道と関係が深い点です。そこで、それらについて考えてみましょう。

 修験道は山を神聖な場所と捉え、山の奥深くまで分け入り、修行することによって、神秘的な力を手に入れ、その力によって救済を目指す山岳信仰の宗教で、修験を「山伏(やまぶし)」とも言います。自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、仏教、道教儒教などの外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道陰陽道民間信仰などまでが取り入れられ、混成されてきたのが修験道です。

 修験道の教義や世界観、修行方法には仏教、特に密教が取り入れられていて、そのため密教の知識がないと、修験道を理解することはできません。中世より多くの密教僧が修験道を伝えてきました。そのため、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道は仏教の修行法の一つと考えられてきました。こうして、修験道とは日本古来の漠然とした宗教的心情を、主に仏教思想を利用して整理し、さらにその他の宗教をも習合して形成されてきた独特の宗教と捉えることができます。

 現在の戸隠神社は、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社の五社から成り立っていますが、明治以前は「戸隠山顕光寺」と呼ばれ、奥院、中院、宝光院からなっていました。既に平安時代には神仏習合の一大山岳霊場として多くの修験者が集い、戸隠三千坊と言われるほど、修験道の聖地として歴史を刻み、戸隠山の険しい岩峰の姿から、厳しい修行の場でした。明治に入り、神仏分離により仏像や仏教的なものは全て取り除かれ、名前も戸隠神社と改められ現在に至ります。この経緯は関山神社とほぼ同じで、修験道別当寺、神仏分離など、まるで兄弟のようによく似ています。

 ところで、「別当(べっとう)」は「兼務する」という意味で、寺院が兼務して神社を管理する場合に使われました。神社を管理するために置かれた寺院が別当寺、宮寺(みやでら)、神宮司(じんぐうじ)などと呼ばれました。ですから、宝蔵院が関山神社を、顕光寺戸隠神社を管理していたということになります。このような管理体制は本地垂迹説にもとづいているため、別当寺の方が神社より優位な立場にあり、別当寺が神社の祭祀を仏式で執り行い、神前読経があげられ、それを取り仕切っている僧の代表が「別当」と呼ばれていました。ですから、「別当」は「宮司」よりも上位の立場にありました。