お盆に仏教の歴史を再訪しよう(2)

5仏教の伝播と教義の変質

 中国に伝わった仏教は、経典の翻訳から始まる。鳩摩羅什がインド人翻訳家として有名。わが国では唐時代の玄奘三蔵が翻訳した経典が知られている。玄奘三蔵は翻訳家というよりも、中国に不足していた仏教関連資料の輸入に貢献したことで有名。彼は三蔵法師として西遊記の主人公になり、孫悟空猪八戒と一緒に天竺に旅行する。西安には街の南に玄奘三蔵が持ってきた経典を収めてあったという大雁塔が今も聳えている。

  次の段階になると、中国の考え方を仏教の教義に取り入れることが起こる。中国に仏教が伝わったとき、中国人に非常に受け入れ難かったのは、出家して修行するということだった。紀元前後に中国を支配していた漢は国家運営の基礎として儒教を採用した。儒教孔子の教えで、政治は徳によって行わなければいけない、その徳は目上の人を敬い、親に孝行しなければいけないという道徳。出家するということは親を捨てるということを意味するから、儒教の親孝行の考えに反する。したがって、プロの僧侶が代わりに出家してくれている大乗仏教儒教にとって好都合だった。だが、それでも仏教の中に儒教の考えを入れるような変更、修正が必要だった。儒教の考えを採り入れた仏教が作られ、中国製のお経がたくさん作られた。中国製のお経は偽経(ぎきょう)と呼ばれる。

  紀元前3世紀頃まで続く中国の春秋戦国時代には、諸子百家といわれる思想家たちによって様々な思想が考えられ、仏教が伝わった時には既にそれらが存在していた。そのうち「無為自然(なにもせずに自然のままにすること)」を説く老子荘子の考えは道教として民間信仰になっていて、「空」を基本とする仏教を受け入れる素地ができ上がっていた。

  仏教はこのように種々の民間信仰と一緒になり、儒教の考えを取り入れて中国式に変貌を遂げる。中国経由の仏教にその痕跡を見出すことができる。例えば、輪廻転生について、中国の南北朝時代民間信仰チベットに伝わった仏教に取り入れられ、「死者の書」と呼ばれる本になっている。これは十王説と言われ、今の法事の根拠になっている。すなわち、死後、閻魔(えんま)大王など10人の裁判官に、前世での善い行いや悪い行いを次々に裁判され、最後に極楽か地獄かに振り分けられるという考えである。十王説は「悪いことをしたら地獄に落ちる」というように、人々の恐怖心を刺激し、正しく生きるように導くということであり、本来の仏教にはなかった考えである。また、今もお盆の行事が様々行われているが、これも儒教による中国の民間信仰がもとになった行事で、主人公の目蓮の親孝行の話を述べた「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という偽経に基づいている。

 

6仏教哲学および体系化の完成

 2~3世紀頃、インドの僧侶ナーガルジュナが、哲学的な観点から大乗仏教の体系化を行った。ナーガルジュナは中国や日本では、「龍樹」と呼ばれている。龍樹はその著『中論』の中で、『般若経』で述べられている「空」を理論化した。つまり、仏教の公理である「無常」という言明自体が自己言及型の論理の破綻(「無常」自体を無常という言明の対象とするならば自己矛盾を来たす、ヘラクレイトスの万物流転の議論と似ている)を内包しており、これを克服するために「空」を位置づけ、あらゆる現象はそれぞれの時間的、空間的な関係の上にのみ成り立っており、現象自体が実在しているのではないと考え、それを「空」と名づけた。龍樹によれば、「空」=「縁起」=「因縁」となる。『般若経』で述べられている「空」を理論化する哲学として、4世紀に無着と世親の兄弟が体系化した唯識論がある。事物的な存在はないが、八種類の意識(魂)が存在するとして、その意識を基礎にしてヨーガにより悟りの境地に達するという考えである。唯識は死後にも不滅の魂に相当する意識としてアーラヤ識も存在すると考えることから、竜樹の空観の哲学とは真っ向から対立することになる。この空観と唯識大乗仏教を代表する二大哲学。

 一方、中国人で仏教の構造を体系化した人に天台大師智顗(ちぎ)がいる。智顗は、ブッダが一生のうちでいろいろなことを言ったが、そのときの年齢が違うし、言った相手の知的能力も違うのだから、同じことを違う言い方で言ったに違いないと考えた。ブッダの年齢順に、順番に並べてみた結果、全体を五つの時期に分けて「五時の教判(ごじのきょうばん)」と名づけた。『華厳経』-『阿含経(原始経典)』-『維摩経』-『般若経』-『法華経』の順番。この五時の教判は、結果として、例えば『阿含経』よりは『法華経』のほうが優れているというような、経典に優劣をつける結果となった。天台大師智顗は名前からわかるように、中国の天台山天台宗を開いた僧侶で、天台宗平安時代初めに最澄が留学して習ってきた宗派。仏教はクシャ-ナ朝で繁栄したが、チャンドラ・グプタによるグプタ朝の成立という王朝の交代によりインドにおける仏教は急速に廃れていく。ただし、インドでは、ヒンズ-教と仏教はほんとうのところは同じ宗教だとする考えが一般に広まって、今でもインドの人々は仏教をヒンズ-教の一宗派くらいにしか考えていない。一方、中国に伝わった仏教信仰は、いろいろな考え方を吸収して変形しながら益々拡がっていき、三国時代には朝鮮半島にまで達し、6世紀半ばに日本に伝わった。中国を経由した大乗仏教は本来の釈迦の考え方とはかなりかけ離れたものになり、独自の哲学を背景に仏教という名前で一人歩きを始めてしまった。大乗仏教が結果的にブッダの主張に背いた考え方になったとしても、なお哲学として優れた考え方をもつ宗教になったのもまた事実。

 

7日本への仏教伝来

  日本へ仏教が伝わって来たのは6世紀で、百済聖明王を通じてのもの。これを受け入れるか否かについて賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の間で意見が分かれ、最終的には受け入れ賛成の蘇我氏が勝利を収めた。蘇我氏を背景に本格的に仏教を研究し、同時に政策に採り入れたのが聖徳太子

 奈良時代になると国をあげてインドや中国から仏教の輸入が行われた。上座部系の倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、大乗系の律(りつ)、法相(ほっそう:唯識)、三論(さんろん)、華厳(けごん)の六宗派。これは鎌倉時代以降の宗派とは違って、相互交流をもち、仏教学部内の教室の違いという風で、一つの寺に色々な宗派の僧侶がいた。これが南都六宗。さらに、聖武天皇による大仏建立など、国家プロジェクトとして仏教を盛り上げ、政策として仏教普及が推進された。道鏡の出現などによる平安遷都は従来の奈良仏教から政治を分離しようする一種の政治改革、宗教改革だった。

 

8日本における釈迦思想の復活-最澄空海

    平安時代から鎌倉時代にかけてブッダの考えに比較的近い、独自の考え方を折り込んだ新興宗教が興った。これが日本仏教の大きな特徴で、それらはほとんど大乗経典を基本にしている。

  まず、平安時代初めに、奈良仏教から抜け出し、仏教の改革を行う目的で最澄天台宗を輸入した。最澄は平安遷都を進める上でのブレーンの役割を果たした。最澄桓武天皇から注目されたきっかけは、平安京の鬼門にあたる北東の方角にある比叡山に寺を建てたこと。その最澄天台宗輸入は天皇の命を受けて行われ、天台宗はその後の新興仏教が興こるきっかけを与えることになる。

 また、最澄と一緒の遣唐使に便乗した空海密教を輸入する。空海は都の長安密教の直系をそのまま受け継ぎ、日本に輸入した。空海長安密教僧である恵果に弟子入りして密教の奥義を伝授され、宗教としての密教を完成させた。密教ではブッダの悟りを追体験することを目指し、宇宙を信仰の対象にして様々な秘術を用いて修行するが、空海は大乗、小乗どちらも包含する壮大なシステムの構築を考えていた。

 ブッダの悟りの境地を知るには大きく分類して二つの方法がある。一つはブッダが残した言葉から学ぶこと、つまり、経典を注解し悟りに達する方法。もう一つはブッダが悟りに達した状況を追体験する方法。

 ブッダが悟りの境地に達した時が仏教の始まりだが、実はブッダは初めは誰にもそのことについて話さなかった。この期間が21日ある。その後に初めて他の人に話し始め、それを聞いた弟子たちがブッダから話を聞くということで仏教を学び始めた。ブッダに心境の変化を起こさせたのは梵天ということになっている。これを梵天勧請といい、上座部経典に説かれている。なお、梵天バラモン教からの輸入仏。このように22日目以降にブッダが話し始めた教説が「顕教」と呼ばれる。顕教では釈迦の教説を記録した経典を研究することによって、つまりブッダの言葉を通して教説を学ぶということになる。

 ところが、何も話さなかった最初の21日間に着目して、そのときのブッダと同じ精神状態を追体験しようとする考え方があり、これが「密教」。最初の21日間のブッダ、すなわちブッダの口から出る言葉(サンスクリット語真言)、姿勢、心もちをそのまま全部追体験しようという試みである。具体的には真言を唱えながら印契を結び、いわゆる催眠状態を目指す。これはどうみても超常体験としか言いようがない。真言サンスクリット語の呪い、例えば『般若心経』の末尾に出てくる呪文の部分が真言のよい例。

 以上のように、密教は本質的に自力的なもので、釈迦の境地に達するのは祈祷者自身であり、真言宗の僧侶に祈祷を頼んでご利益を得るということは原理的に間違いだということになる。 

 空海密教には二つのキーワードがある。一つは「ご利益」。病気が治るとか、土木工事などのプロジェクトがうまくいくといった庶民に直接関係のある「ご利益」を強調し、実現してみせることによって、それまで官主導で進められてきた仏教信仰を庶民文化の中に定着するという役割を担った。これは、理屈抜きで信じるという正真正銘の宗教であるという効果があったが、それと同時に密教が宗教のもつ一抹のいかがわしさを持ったことは否定できない。もう一つのキーワードは「即身成仏」。空海は死期を悟った後、高野山奥の院に篭ってそのまま成仏したと伝えられている。これによって、成仏と死というものが直結してしまう。

 最澄は中国天台山揚子江の河口近く)に短期間留学して天台宗の仏典を持ちかえっただけで、天台宗の教えの研究自体は帰国後に持ち越された。ところが最澄が帰ってしばらく経つと、天皇嵯峨天皇に代わり、空海が脚光を浴びて登場することにより、日本に密教ブ-ムが起こった。この時点で最澄は流行に乗り遅れるかもしれないとあせりを感じたと思われる。天台宗は『法華経』というお経を重要視する宗派だが、『法華経』の記述には禅や浄土などの要素も含んでおり、言ってみれば、基本的に何でも受け入れることができる宗派だったので、密教的な要素を入れても教義自体が変わるというようなこともなく、形式上、スンナリと密教が入ってしまった。天台宗密教のことを台密という。こういう具合で天台宗は考え方の範囲が非常に広い宗派になったことや、天台宗自体の研究は最澄の帰国後の課題であったことから、研究しなければならないことがたくさん残り、宗教というよりは学術的な雰囲気の中で宗派が維持されてきた。最澄天皇の支持を受けて公式に留学し、延暦寺を開山したので、歴史学の立場からは権力密着型の僧侶。しかし、それまで政治と一体となっていた奈良仏教を批判し、政治と宗教を分けるという原則に立って仏教の変革をしようと朝廷を利用したのである。

  最澄空海が以後の日本仏教の原型をつくる。庶民の仏教信仰という観点からはいわゆる「お大師様」空海が重要だが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要。なぜなら、これ以後、ほとんどの僧侶は完成された高野山ではなく未完成の比叡山を目指し、比叡山は多くの逸材が修行、研究する場を提供したからである。その中で鎌倉時代比叡山で勉強した数人の天才僧侶たちが、天台宗のやり方に不満や疑問をもつことによって、新仏教を生んでいくことになる。

 

9鎌倉仏教

 鎌倉仏教は比叡山で修行を積んだ天才僧侶たちが自らの考えを実践する形で生み出された。結果的にブッダの主張がこれらの人々の考えを通じて改めて認識されることになる。これについて浄土教から見ていこう。

 浄土経系の宗派には浄土宗、浄土真宗時宗などがあり、いずれも浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)に基づき、念仏を唱えることをその宗教活動の中心に据えている。中でも浄土宗を始めた法然浄土真宗親鸞が重要。法然阿弥陀如来を信仰し、平等という考えをもって、政治権力に反対し、僧侶がお寺をもつ必要がないことを主張。浄土真宗の開祖は法然の弟子の親鸞だが、彼は徹底的に他力本願とは何かを追求した。その結果、阿弥陀如来を信じることを第一に考え、そのため念仏至上主義の立場をとった。彼は布施にも反対する。また、親鸞は仏教に善悪の考え方を導入した点に著しい特徴がある。善悪は儒教に登場する倫理的な概念で、空を基本とする相対論的な仏教には本来存在しないものである。

 次に、禅宗は座禅を修行の中心に据える宗派で、経典の言葉では意思は伝わらないと考える。臨済宗では『般若経』と『法華経』などを重要なお経と考えているが、開祖の栄西(ようさい)の考え方は、教外別伝(きょうがいべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)と言われるように、言葉によらずにインスピレーションで悟りに至るというもの。そのために座禅があるのだが、栄西の座禅は出された問題を考えながら座禅をする公案禅(こうあんぜん)。臨済宗栄西の後もしばらくの間は一休とか夢窓疎石などの優れた禅師が続いて登場する。曹洞宗の開祖とされる道元も教外別伝、不立文字、以心伝心で特定のお経にこだわらず、座禅によって悟ることを目指すが、栄西の禅とは違って、何も考えないでひたすら座禅をする黙照禅(もくしょうぜん)という座禅を生み出した。

 これ以外に『法華経』が最も大切だと主張し、権力に刃向かい、他の宗派をすべて否定する超過激派の日蓮が始めた日蓮宗もある。

  ブッダの基本思想という点からこれら開祖を評価してみよう。まず、生命の尊重、平等主義、個人主義の三つは程度の差こそあれ、すべての開祖に共通している考え方。特に、権力に迎合しない姿勢はこれら開祖すべてに共通している。偶像崇拝の禁止については、禅宗の二人は基本的に仏像はいらないと思っているから、仏像を拝むということは考えていない。浄土教系においては、念仏を唱えるのが最も重要であり、これは拝む行為ではなくて一種の修行方法と考えられるから、偶像崇拝の考えとは本質的に異なっている。いずれにせよ、これら鎌倉時代の天才僧侶たちは知ってか知らずか、ブッダの考えに非常に近い思想を共有しているように思われる。  

 

10鎌倉仏教の影響と衰退

  さて、鎌倉新興仏教の開祖たちが天才だったことは二つの意味を持っている。一つは、開祖の個性が前面に出てきて、大乗仏教で見えにくくなっていた仏教本来の姿がもっと見えなくなってしまったということ。例えば、親鸞道元などの開祖の姿や主張がまず見え、ブッダの考え自体はその後ろに隠れてしまった。つまり、浄土真宗は、ブッダの教えというよりも親鸞の教え、親鸞の宗派であり、同様に曹洞宗というのは道元の宗教と考えられるようなった。

 もう一つの意味は、開祖たちが天才だったためにその開祖の教えが百点満点で、そのためその教えをもっと良くするようなことを後を継いだ人たちが考える必要がなかった。したがって、日本の仏教諸宗派は開始と同時に、その哲学や思想という点で次第に衰えていった。仏教史を見れば、鎌倉時代以後は若干の話題が出てくる程度で、その考え方にめぼしい進展のないことがわかる。

 

11仏教の衰退と退廃

 地域の人々を掌握するために仏教をうまく活用したのが江戸幕府。ここで有名な悪僧が二人登場する。一人は天台宗の天海、もう一人は臨済宗の崇伝。天海は最澄の真似をして江戸の鬼門にあたる上野に鬼門封じとして寛永寺を建立し、金地院崇伝は紫衣事件を起こした。

 彼らが仏教の思想的衰退にとどめを刺した。まず、彼らは檀家制度を発明して総本山-大本山-末寺の体制をつくった。幕府は鎖国政策によってキリスト教を禁止しましたが、その際、人々はいずれかの寺院の檀家にならなければならないとして、宗門人別帳という全員の名簿を寺院に作らせて、幕府が戸籍と宗教の管理をするかわりに、その役割を寺院に任せた。この檀家制度は世の中を統治する政治の話であって、仏教とは直接関係のないことだが、その後の文化に非常に大きい影響を与えた。同時に本山末寺体制によって仏教教団の集金システムが完備された。この二人の僧によって、仏教は本来の仏教思想から離れ、ビジネス組織、管理組織に変貌する。江戸幕府が指導原理を儒教とし、統治手法に仏教寺院を利用したことの二点は、その後の日本人の精神への影響という意味で極めて大きな禍根を残した。

 明治維新は仏教をやめようという廃仏棄釈運動や西洋文化を採り入れる欧化政策などをとった。これによって仏教教団は危機的状況に陥る。江戸時代に檀家制度によって築き上げた経済力も版籍奉還によって所領の没収という形で壊滅的な打撃を受けた。ただし、浄土真宗は資産運用に所領の拡張という方法をとらなかったので、経済力の壊滅をうまく逃れ莫大な蓄財に成功した。 

 西欧ではアジアが植民地であったことから、植民地政策上の必要性もあって、インド学が形成された。例えば、イギリスの言語学者であるジョーンズは、仏教経典の言語であるサンスクリット語インド・ヨーロッパ語族に属することを発見した。サンスクリット語パーリ語というインドの古い言語の研究を基礎として、19世紀の段階では既に仏教経典の文献学的研究が相当に進んでいた。その主な研究対象は上座部仏教の経典が中心で、パ-リ語の阿含経典群などである。明治以後、これらの研究内容が入ってくると、ブッダの考え方を比較的忠実に反映しているのは上座部仏教であって、それから大きく逸脱している大乗仏教は、実は仏教ではないのではないかという疑問が学問的な説得力をもつようになり、「大乗非仏説論争」が起こる。その結果、大乗も一応ブッダの教説を正しく継承したものであること、またその大乗への変形は発展の必然的形態であるという大乗精神肯定の方向で決着した。 

 

12大乗非仏説

 大乗非仏説は、大乗仏教の諸経典はブッダの死後400~500年後に編集された論文、文学作品であり、ブッダの思想を直接に反映したものではないという主張。この大乗経典非仏説は、西欧における上座部パーリ語阿含経典群などの文献学的研究によって次第に明らかにされ、イギリスの植民地であったインドにおいて始まった議論だが、日本でもその提唱は意外に古く、江戸時代に出た富永仲基(とみながなかもと)がやはり文献学的な研究によって大乗非仏説を唱えている。文献学的研究だが、その原理について簡単に触れておく。いま、文献Aにaという記述があり、文献Bにaについての参照や類似の記述がある場合、文献Bが文献Aの後に成立したことがわかる。この原則を繰り返すことによって文献の成立過程を明らかにしていくというのが彼の方法。富永仲基は独自にこのような方法を考え出した。

 富永仲基は自分で文献学的手法を開発し、大乗経典の成立順序を歴史的に明らかにすることに成功。勿論、仏教界からは極悪非道の人物とされたが、この富永の説を受けて国学者平田篤胤が排仏思想に発展させた。これが明治維新期の排仏毀釈運動の端緒になって仏教界では両人ともにとても恨まれている。

 明治になって、1901年、東大の村上専精が「仏教統一論」によって大乗非仏説を唱え、論争が始まった。村上専精は真宗大谷派の僧侶だったが、これにより僧籍を剥奪される。論争は大乗も一応ブッダの教説を正しく継承したものであること、またその大乗への変形は発展の必然的形態であるという理解をするという大乗精神肯定の方向で決着したが、現代では学問的には大乗非仏説の主張が定着しており、大乗経典がブッダの教説をそのまま反映していると考えている仏教学者はいない。