お盆に仏教の歴史を再訪しよう(1)

  仏教は長い歴史をもつ。その歴史の中で日本仏教にとって特筆すべきなのは、大乗仏教の勃興、その中国化、鎌倉新仏教の誕生の三つ。それらをまとめてみよう。

1仏教の誕生とブッダの思想

  ブッダが生まれたのは紀元前5世紀頃(縄文時代の終わり)で、その一生は阿含(あごん)経典群に書かれていて、それらお経がブッダの伝記になっている。

 ブッダは自らの思想を語るだけで、書き記していない。これは昔の思想伝達の普通の方法で、釈迦が亡くなった後もしばらくはこの「口伝」が続く。ブッダが亡くなった後に、弟子たちが自分たちの記憶を整理し、これを仏典、つまり、お経としてまとめ、後に書物の形で原始仏教経典として残した。

 では、ブッダの考えとは何だったのか。そのエッセンスは、宇宙の真のしくみを学び、それを知ることによって心の平和を得る、ということ。「宇宙のほんとうのしくみ」、「心の平和」といった抽象的な表現ではよくわからないので、もっと具体的に考えてみよう。「事物は常に変化し、不変のものはない」というのが宇宙の真のしくみだと前提され、これが仏教の公理。その公理のもとで、命を大切にすること、偶像崇拝の禁止、人間を平等に扱うこと、自分で物事を考え自分の責任で行動すること、死者に関する儀式(葬式)の禁止などが、心の平和を得る方法と捉えられている。

 命を大切にすること、これは不殺生戒として今の仏教にも残っている。偶像崇拝の禁止によって最初の500年ほどは仏像はつくられず、釈迦の骨(仏舎利)以外に拝むものがなかった。仏教徒が仏像をもつのは釈迦が死んで400年以上経ってからのこと。

 人間を平等に扱うこととカースト制度は両立しない。インドのカースト制度は厳しい身分制度だが、その最も下のシュードラという階級に属するウパーリ(優波離)という弟子がリーダーとして教団を指導したという経典の記述があり、釈迦の仏教教団はカースト制度を基本的に無視していた。  

 自分で物事を考え自分の責任で行動するという個人主義によれば、悟りをひらくのは自分自身であり、またその悟りも人によって内容が違うかもしれない。事実、ブッダの死後、仏教は統一教義をもっておらず、したがって、異端という概念もない。ただし、この個人主義は宗教としては議論のあるところで、後に個人主義自体が間違いであるとする反対意見が出て、大乗仏教の登場につながる。このことから、初期の仏教教団を宗教集団というより、個人主義を基本にした修行集団とみるべきだろう。  

 最後の葬式の禁止は上座部のお経にブッダの言葉として書かれている。ブッダは自分の教えが生きている人のためのものであり、弟子たちには死者には決して関わるなと厳しく言っていた。インド人には輪廻転生という考え方があるが、ブッダはその輪廻転生が生きているときの行いによって決まり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていた。ブッダの考えた仏教はあくまで生きている人間のためのものであり、葬式や法事はブッダの考えた仏教とは無関係である。

 

2原始仏教経典の成立

  ブッダが亡くなったすぐ後に、弟子たちが記憶した彼の教えを確認し、まとめた結果が初期経典で、どれも口伝。後に経典は如是我聞(私はこう聞きました)という言葉で始めるという約束ができ、口伝形式の経典は一定の書式の書物になっていく。口伝で教義を伝えるということは、ブッダが一定の権威をもつ場合に弟子たちがその権威を独占できるとともに、ブッダ以外の考え方を教義の中に入れ込むことも可能になる。これは伝言ゲームが正しく伝わらないのと同様。

 キリスト教イスラム教などでは、教義を一つにして皆で同じ教えを信じるために何度も話し合いや論争をしているが、仏教では一度もこのような教義の統一は行われなかった。したがって、「如是我聞」で始めれば、何を言っても仏教のお経として認められることになる。だから、仏教の経典は莫大な数になり、諸説乱立の可能性が最初からあった。

 異質な考えが混入した証拠が現在の仏教に残っている。初期仏教の段階からバラモン教の神様が多数紛れ込んでいる。例えば、四国の金毘羅様の正体はガンジス河のワニ。そのほかにも弁財天、帝釈天、水天宮などの「天」のつく仏様の正体はすべてバラモン教の神様。これにはそれなりの理由がある。新興の仏教教団がバラモン教などの既存の教団からいじめられ、妥協の結果、このような神様も認めてしまったようだ。

 

3大乗仏教の成立

  紀元前3世紀にインドのマウルヤ朝のアショーカ王が仏教の庇護に努め、仏教の信仰が広がる。原始仏教の教えを説いた経典は阿含経という一連のお経。仏教建築としてのストゥーパ(仏塔、日本の五重塔の原型)が広範囲に作られ始めたのもこの頃。さて、キリストが生まれた頃に仏教教団内で宗教改革運動が起こる。それまでの仏教の修行は個人的なもので、結局は自分のことしか考えていないものだった。そこに、もっと人間全体を救う方向に変えていくべきだ、という意見が出てくる。出家者が自分のことだけを考えて在家(出家はしていないが仏教の信者)の人を締め出し、自分だけ修行に励むという姿勢では決して本当の悟りは得られないという信念に基づいて、一方的に従来の仏教を小さい乗り物(小乗)、自分たちを大きい乗り物(大乗)と呼び、仏教が大きく二派に分裂したのである。

  大乗仏教の成立には、二つの意味がある。一つは仏教と言いながらもブッダの本来の考えから別れて独自の道を歩き始めたということ。もう一つは仏教のプロが登場すること、すなわち、僧侶の誕生。この改革は仏教が唯一の教義をもたないだけに一歩間違えば全く別の宗教になる危険をもっていた。今日の日本仏教の原型はこの宗教改革によってできた。

  大乗仏教が誕生した結果、ブッダの思想の継承だけでなく、独自の哲学思想として膨大な数の大乗経典が生まれる。極楽浄土というユートピアが発案されたのもこの頃。このような新しい動きが多様な考え方を生み、仏教にさらに哲学的な深みが加わっていった。

 

4仏像の発明

  西暦1世紀にインド北部のクシャーナ族というイラン系の民族が南下し、インド北部に侵入し、大乗および上座部を含めた仏教全体の歴史を変える大事件が起こる。ガンダーラ地方では大虐殺が行われ、ガンダーラ地方の人々は仏教に救いを求めた。仏教を信じるガンダーラの人々は、苦しい状況の中で釈迦の姿を見たいとの強い想いから釈迦の姿を石に刻んで拝み始めた。こうしてガンダーラで仏像が生まれた。ブッダの死後500年ほど経ったてのことである。ブッダ偶像崇拝を固く禁じたので、彼の姿を拝むという風習は原始仏教にはない。この時点で仏像を刻んで拝むということが定着すると共に仏教圏全体に拡大普及し、ガンダー ラ地方は東西の交易路、南のシルクロードに位置していたから、ギリシアの影響を受けて彫刻としても洗練された仏像が作られるようになる。その後、インドを征服したクシャーナ族のカニシカ王ストゥーパ(仏塔)を建立して仏教を庇護した。カニシカ王によって仏教が国際的な広がりをもつようになり、仏教と仏像、それに仏塔を始めとする仏教建築が中国に伝わった。

 

5経典と方便

聖徳太子最澄の昔から、日本で最も親しまれてきた経典が『法華経』。

(1)大乗仏典のなかの代表的な仏典:『法華経』  

 ブッダの死後300-400年後、西暦1世紀前後に伝統的仏教に対して新しい宗教改革運動が起こる。これが大乗仏教の始まりで、この宗教改革の特徴は、自らの思想を表現する新しい経典を創作した点にある。大乗仏教の改革者たちは別の経典を創作し、ブッダ自身も同じように教えたはずだという仕方で自分たちの新思想を展開した。『法華経』はそのような大乗仏典の代表的な一つ。

 一番最初の大乗仏典が『般若経』。その後、『維摩経』、『法華経』、『浄土経』などの経典がつくられる。私たちの知っている『法華経』(クマラジーヴァ訳『妙法蓮華経』)の原典はおそらく西暦3世紀の中葉までに成立したと思われる。つまり、『法華経』はブッダの死後およそ400-500年後に、大乗仏教運動の宗教改革者たちによってまったく新しく創作された経典(大乗経典)の一つ。

 (2)大乗仏教運動の改革者たちの主張とその理想像

 大乗仏教運動の宗教改革者たちは伝統的仏教の何に反逆したのか。伝統的仏教の僧たちは自らの修業と悟りを究極的な目的にしていて、大衆の救いに関心を持たなかったところにある。新しい経典の作者たちは、自分自身の救いを後回しにしてまでも大衆の救いの為に生きる、そういう仏教徒としての期待される理想像を求めた。その理想像が菩薩である。菩薩は悟ってブッダになる前の求道者だが、新しく創作された大乗経典の中で大衆の救いの為に生きる理想的ヒーローとして登場する。観音菩薩とか弥勒菩薩とか、何百何千の菩薩が大乗教典に登場するが、すべて創作された架空のヒーロー。真の求道者とはいかにあるべきかを示す理想像として菩薩たちが活躍する一連の創作物語、それが大乗経典。 例えば、初期の大乗経典である『金剛般若経』では、菩薩(=真の求道者)は生けるものすべてを救うために生きていても、自分が誰かを救っているなどと意識しない人として登場する。そういう菩薩の姿を理想的な修行者として描くことによって、修行者自らの悟りに専念する伝統的仏教を批判し、仏教を改革しようとした。

 『維摩経』という大乗経典では、維摩という在家信者が病気なので、ブッダがその弟子たちに見舞いに行くように勧めるが、誰も見舞いに行きたがらない。それで、最後に、文殊という名前の菩薩が見舞いに行く、という物語。ここでは、菩薩を「人々が苦しんでいるという理由だけで苦しんでいる病人」として表現することによって、大乗の新しい修行者の理想像を語っている。

 伝統的な仏教ではブッダの教えは悟りに達することが最終的な目的。ブッダの教えは、苦の原因を知り尽くし、それに執着しないことから、苦からの解放を得る道である。それは苦を作りだしていた原因に対する迷妄からの解放。それがブッダの悟りなのだが、『法華経』はそれではまだ「この上なく勝れた」悟りに達しているとはいえないと言う。では、「この上なく勝れた」悟りとは一体何なのか。『法華経』においても、他の大乗経典と同じように、理想の修行者は、自ら苦から解放されて悟りと平安の境地にとどまっている人ではなく、立ち上がって、「神々と世間の人々の幸福のために」、「多くの人間を苦しみから解放させる」ため、「すべての人々の安楽の基となる」ブッダの教えを説き示す人である。これが、単なる「悟り」を超えた「この上なく勝れた」悟り。

 このように、大乗仏教宗教改革者たちは、自分みずからの救いを求めるのではなく、生きるものすべての救いを求める人を求道者の理想像=菩薩とした。そして、その新しい教えを「大乗」、すなわち、たくさんの人々を救うのに大きく勝れた乗物(菩薩乗)と呼んだ。

(3)ブッダの教えと大衆の迷信

 いつでもどこでも人々は迷信を信じてきた。それは、仏教も同じ。ブッダが死んだあと、弟子たちはその教えを守り修業した。しかし、一般大衆は、ブッダの教えを学び、厳しく修業したりするより、むしろ、ブッダの骨を収める仏舎利塔にお参りすることで済まそうとした。ブッダの教えは理路整然としていて、それは、苦の原因を追及し、それを取り除くことによって苦からの解放を得るというものだった。そのため、ブッダは祈祷やまじないを否定した。ところが、大衆の救いに大きな関心を持つ大乗仏教の改革者たちは、大衆の迷信を否定せず、それもブッダの教えと同じように積極的に受容した。

 これは、大乗仏教に特徴的な性質で、伝統的仏教にはほとんどないものである。しかも、後代の大乗経典になるほど、この大衆の迷信を受容する傾向が強くなる。やがて、仏像をつくってそれを拝むことが受容され、最後期の大乗教典(密教)では、ブッダが明白に否定したさまざまな迷信、呪文(真言)や「火をたく護摩の術」さえも受容される。

 このように、大衆の救いに特別の関心を持つ大乗仏教の改革者たちは、ブッダが否定したさまざまな迷信を否定するどころか、むしろそれを積極的に受け入れ、それによって大衆が救われることを主張した。そして、それを正当化するために、新しい経典(大乗経典)をつくった。

(4)巧みなてだて(方便)

 大乗経典は宗教文学。文学は創作だが、文学は人を騙すための創作、嘘ではなく、それを通じて作者のメッセージを伝える物語。大乗経典は、ブッダが教えたという伝統的仏教経典の形式を使って、ブッダや菩薩を主役として登場させた創作物語。それは、ブッダの思想を継承し、ブッダが語らなかった真理を語ろうとする物語作品である。

 では、大乗仏教の改革者たちは、どのような根拠でブッダの教えでないものをブッダの教えとして新しい経典を次々に創作することができたのか。その答えの一つが、「巧みなてだて(ウパーヤ、方便)」という大乗仏教を特徴づける思想にある。大衆を救わんとする諸仏や菩薩に備わっているとされる救済のための巧みな技術が方便。彼らは実に革命的なことを考えだした。すなわち、大衆が簡単に受け入れる仏舎利塔信仰や仏像信仰や経典信仰などの迷信を、単に迷信であるとして捨てずに、それらを、彼らのような者たちでさえも仏教の道に入ることができるようにと、秘かに企てられたブッダの巧みな手だて(方便)であると解釈した

(5)大乗はブッダの教えを否定する?

 悲しみや苦しみからの解放は、その原因や条件を知り、それらを取り除くことによって達成される、とブッダは考え、人間の悲しみや苦しみからの解放の手段としての迷信(神々への祈祷や祭祀や呪文等々)はすべて捨てるよう説いた。それが原始仏典が伝え残したブッダの教え。したがって、大乗の諸経典がブッダの遺骨に供え物を捧げるだけで(仏舎利塔信仰)、仏像を作りそれに礼拝するだけで(仏像信仰)、あるいは経典の一節や題目を唱えるだけで(経典信仰)、最高のさとりに至ることができるなどという迷信を認め取り入れたことは、ブッダの本来の教えを否定することを意味している。

 そこで、ブッダの教えを否定するかれらの新しい思想こそが実は「ブッダのより勝れた教え(大乗)であり、伝統的仏教は、ブッダの教えを理解できない大衆を救う心も技術も持たない劣った人々のための仮の、方便としての教え(小乗)であった」、という巧みな手だて(方便)を考えついたのである。これが、大乗仏教ブッダの教えを否定してもブッダの教えである、と主張するためにかれらが考え出した正当化の方便。

(6)なぜ、ブッダの教えでないものがブッダの道へ導くものとなるのか

  だが、大衆の救いのためとは言え、そんな大衆迎合的な嘘をつくことが許されるのか。「嘘ではない」というのが大乗仏教運動の改革者の確信だった。では、いかにして、本来のブッダの教えでないものが、ブッダへの道になるのか。本来のブッダの教えでなくても、それを受け入れることが、本来のブッダの教えに導かれる何らかの縁となるならば、それは、究極的には、ブッダへの道となるのだから、それもブッダの教えである、というわけである。仏舎利塔や仏像を造ったり、それらを礼拝することそれ自体は、もちろん、ブッダが教えたように、人を悟りに至らせるものではない。しかし、仏舎利信仰や仏像礼拝は、ブッダへの尊敬心を育み、やがて、だれかの心の中に、「ブッダとはだれ?」「ブッダの教えとは?」という問いを生む因縁になるだろう。同じように、経典の名前やその他の呪文をとなえることそれ自体は、ブッダが教えたように、人を悟りに至らせるものではない。こんなものは迷信であって、本来のブッダの教えとは何の関係もない。しかし、経典の名前を唱える行為は、経典やブッダに対する尊敬心を育み、やがて、だれかの心の中に、「その経典には何が書いてあるの?」「呪文の意味は何?」というような問いを生む因縁になるだろう。

 心の中に、「ブッダとは何か」、「ブッダは何を教えたのか」、等々の問いが生まれるとき、人は、本来のブッダの悟りへの道へとすでに一歩踏み出している。菩薩の巧みな手だては、こうして、ブッダの本来の教えを受け入れることのできない「劣った人々」をも、ブッダの道へと誘い出すことになる。そこに「大きくてすぐれた乗物」を主張する面目がある。

(7)縁起の法と一乗思想と永遠のブッダ

 ブッダの教えでないもの、ブッダが否定した事柄さえ、ブッダの道へと導きうるという主張を可能としているものは、もちろん、世界の諸現象が縁起(依存して起こる)関係にあるからである。迷信は迷信、ブッダの教えはブッダの教え、とそれぞれが無関係に自立自存していれば、一方から他方への移行は不可能。つまり、世界が依存関係や因果関係によって成り立っているのでなければ、仏舎利信仰やら仏像礼拝やら経典信仰等々の迷信が、ブッダの本来の教えへの因縁とはなり得ない。種々の教えは、実のところ、ブッダの教えの一つである、という一乗思想は、まさに、この仏教の中心思想である縁起の思想によって裏付けられている。