表情は何についての表情なのか

 表情が表現しているのは思考ではなく、感情だと考えられてきた。だから、表情だけによって哲学も科学も表現することはできないが、人の喜びや悲しみはそれなりに表現できると信じられてきた。辞書風には表情(facial expression)は感情に応じて身体各部に表出される変化のこととされ、、特に顔面に表出される変化、いわゆる「顔つき」が表情と呼ばれてきた。私たちもこのような説明に何ら疑問をもたない。表情は心の内側の感情や情緒を表出するもので、それゆえ、「表情は何についての表情なのか?」に対する答えは明らかで、表情は「心の内側の状態についての表情」ということになる。つまり、表情は心のもつ感情を表現している。これが本当かどうかをしばらく考えてみたい。
 ダーウィンは表情の生物学的意義を重視し、『人間と動物の表情(The Expression of the Emotions in Man and Animals、1872)において、それを三つの原理((1)有用な連合的習慣の原理(The principle of serviceable associated habits)、(2)正反対の原理(The principle of antithesis)、(3)元来意志から独立し,ある程度は習慣から独立した神経系の構成による行為の原理(The principle of actions due to the constitution of the nervous system, independently from the first of the will, and independently to a certain extent of habit))に基づいて説明しようとした。(1)の原理は、イヌの特徴や人の身振りが遺伝することなどが取り上げられ、獲得形質の遺伝のことである。(2)の原理は、イヌが攻撃するときの姿勢と飼い主にじゃれつくときの姿勢が正反対なことが図入りで示されている。(3)の原理によって、筋肉がふるえることや強い痛みの時に汗が出ることなどが説明されている。

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 さて、ダーウィン以来表情についての考察は様々になされてきたが、より実証的な研究が着実に蓄積されているのが今世紀の特徴である。認知心理学進化心理学、脳生理学といった分野において、人だけでなく、様々な動物の表情が実証的に研究されている。
 この実証的な研究は、仮面として類型化された古典的な表情の理解などとは随分と違っている。また、日常言語の分析とも異なっている。美人は「美しい顔」をもつが、美人が「美しい表情」をもつ訳ではない、「美人の表情」はなく、あるのは「美人の顔」だけだ、といった表現上の差異を分析しながら表情の本性を明らかにする、といった日常言語的な分析とも違っている。「表情の現象学」と呼んでもよいような常識的な表情理解は、ギリシャ悲劇以来演劇、文学で主に描かれてきた。また、それと並んで絵画や彫刻でも人の表情はモチーフの一つとして様々に画かれ、彫られてきた。仏像や聖像さえそれぞれの表情をもっていると私たちは理解している。誰も無表情の神や仏の像を崇拝しないのではないか。
 仮面とは人の内面の姿を形象化し、それを表情をもつ顔として表現し、それが拡大されて人間以外の生き物、神や仏の仮面が製作されていった、あるいはその逆である、といった意見が多数出され、議論されてきた。いずれにしてもそこでの前提は何かの象徴、何かの表現が仮面であり、人の場合は心の内の状態をパターン化して表現したものという解釈が圧倒的に多い。パターンが幾つあるにしても、目に見えない心の奥底を具体的に表現し、演劇や絵画においてその役割を付与たのが仮面ということになるのだろう。当然、表出という機能は隠蔽という機能も併せ持っていて、内面を隠す機能も仮面のもつ重要な役割になっている。
 自然科学では科学革命以降実証的な研究が当たり前のものとなり、アリストテレスの思弁的な自然学などは常識学問(folk science)と分類され、歴史的なものとしてしか評価されなくなった。その研究方法は自然科学だけでなく社会科学でも常識になり、心についても心の科学が到来している。常識心理学(folk psychology)はずっと科学的心理学に勝っていたのだが、今世紀に入り、科学的心理学が躍進し、常識心理学と肩を並べるまでになりつつある。そのような傾向の中で、表情についての研究も過去の常識学問を継承するだけでは駄目だということになる。すると、仮面、絵画、彫刻の表情についての従来の考察は常識学問の域を出ず、それでは不十分ということになる。それが、「表情は心のもつ感情(や思想までも)を表現している」という常識的な表現への疑問の出所なのである。