校是「第一義」

 早稲田実業の校是は「去華就実」、校訓が「三敬主義」。「去華就実」は「華やかなものを去り、実に就く」ことで、「実業」精神そのもの。「三敬主義」は天野為之(早稲田実業第二代校長、早稲田大学第二代学長)が唱え、「他を敬し、己を敬し、事物を敬す」という思想。早実の校是、校訓は単刀直入、単純明快。一方、我らが高田高校の校是は「第一義」、校訓が「質実剛健堅忍不抜、自主自律」。ある人は「第一義」を謙信のモットーと呼び、別の人は座右の銘と記し、加藤徹男現校長は公式Webサイトで「上杉謙信公に由来する「第一義」を校是とし、…」と述べるにとどまる。校是「第一義」は一体何を主張しているのか。それを見つけるのがこの雑文の目的。

(1)謙信の「第一義」

 謙信の「第一義」は達磨大師と梁の武帝の問答中に登場。中国に禅を伝えた達磨が梁の武帝と問答し、仏教に帰依する武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏教最高の真理は何か)」と尋ね、達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして聖なるものはない)」と応じ、そう答えるのは誰かと問う武帝に、達磨は「不識(ふしき)(知らない)」と答える(『碧巌録』第一則)。

 「聖諦の第一義=廓然無聖」に似た表現を探せば、「力学の第一法則=慣性の法則」、「熱力学の第一法則=エネルギー保存の法則」など。聖諦、力学、熱力学という条件を外すと、「第一義」、「第一法則」だけとなり、何の原理、法則を指すかわからなくなる。第一義が廓然無聖であるためには「聖諦」が、第一法則がエネルギー保存の法則であるためには「熱力学」が不可欠。「第一義」を辞書で調べても、根本的な原理、道義とあるだけで、何の原理、道義なのかは全く不明。校是「第一義」もまた然り。それゆえ、「第一義」は禅寺の扁額という条件のもとでは頗る適切でも、扁額から離れ、条件なしの校是となると、至極不適切。

 時代は下り、謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙がこの「不識」問答を行う。「達磨の「不識」の意味は何か」と和尚が尋ね、謙信はそれを考え続け、ついに気づく(どう気づいたか識りたいが、私にはわからない)。謙信に武帝のような権力者になってほしくない、謙虚な心を忘れないでほしい、と和尚は考えた(和尚のこの考えと不識との関連も私にはわからない)。とにかく、和尚の心を知った謙信は林泉寺の山門に「第一義」の扁額を掲げたと言われている。

(2)義、義理と第一義

 「義の人謙信」の「義」は、「利」の対局にある儒教概念。義とは正義であり、大義名分。こうなると、人は謙信の第一義を義だと解したくなる。江戸時代に入り、朱子学の「義理」が広まり、謙信の義理堅さが知れ渡る。その中で起こった変化が上杉家の藩校「興譲館」の教育方針。細井平洲と上杉鷹山は学問の目的を「譲るを興す」こと、つまり「相手を思いやる」ことだと説き、倫理の基礎を正義から善へ移した。「興譲の精神」を第一義としたのが米沢興譲館高校となれば、「高田高校の第一義は何か」と問い直したくなる。江戸社会では儒教の「義」が「義理」へと転化し、西鶴の『武家義理物語』でさらに庶民化される。亀井勝一郎によれば、義理は「江戸文化の草化現象」の一つ。こうして、義、義理、さらに人情が江戸の時の流れの中で絡み、縺れ合うが、謙信の「第一義」とはすれ違う。

(3)校是の決定とその意図

 そんな「第一義」が校是となった経緯を探ろう。竹澤攻一著『新潟県立高田高等学校沿革史余話』に鈴木卓苗(たくみょう)第9代校長の訓辞が記され、久島士郎氏がそこから「…偲ぶべき唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定めたい…」(一部改変)と引用されている(『雪椿』、平成21年、p.37)。「第一義」を校是に定めた鈴木校長は1879(明治12)年岩手県延命寺に生まれ、16歳で如法寺(曹洞宗)の養子となる。東京帝国大学哲学科に入学し、参禅三昧の学生時代を送る。新発田中学校の教諭の後、高田中学校校長となり、在任中に全校生徒による「妙高登山」を始めた。同郷の宮沢賢治とも知り合いで、曹洞宗、哲学科、座禅となれば、禅の公案からの校是採用もわからなくはない。だが、「第一義」をそのまま校是にしたのは単なる論理的誤謬か、それとも教育的な深慮の末か、それが私にはわからない。

 1866年高田藩は長州で敗れ、帰藩後に藩校「修道館」を急遽つくる(後に「脩道館」と改称)。それを母胎にした高田高校を含む上越地方では謙信人気が衰えず、それは林泉寺の扁額のみならず、最近の国宝「山鳥毛」の取得活動にも窺える。越後の英雄の遺物は唯一自筆の扁額のみとなれば、「第一義」は最初から謙信を崇め、敬うという郷土の文脈の中で、謙信を指示する唯一の象徴として校是に選ばれたのではないか。そうであれば、校是は第一義の概念的な意味ではなく、それが象徴するものとなる。

(4)漱石の「第一義」

 校是を側面から支持するのが夏目漱石の「第一義」。漱石の「第一義」は「人生の第一義」であり、「人生の第一義は道義に裏打ちされた生き方」というのが漱石の答。そして、この答が「第一義」の近代的な意味となり、多くの日本人に受容されていく(鈴木校長も『虞美人草』を読んでいた筈で、彼が高田中学に在職していたのは1915年頃で、『虞美人草』の初出は1907年)。

 その漱石が感銘を受け、『虞美人草』執筆に至る扁額がある。それは宇治市萬福寺総門の扁額「第一義」。萬福寺の第五代高泉和尚は書や詩文に長じた高僧。総門の建て替えで、書かれた額字「第一義」は見事な能筆。鈴木校長も漱石と同じように扁額「第一義」に触発されたと考えたくなるが、そこに漱石のような人生解釈は見つからない。他の「第一義」を探せば、鈴木大拙の『禅の第一義』(1917年)、島木健作の小説『第一義』(1936年)、『第一義の道』(1936年)など。また、成城学園創立者澤柳政太郎は漱石と大学同窓で、「所求第一義(求むるところ第一義)」を校是に掲げた(1917年)。「所求第一義」は「究極の真理を求めよ」という主張。上記いずれも「何の」第一義かが定まっている。

(5)上越の「第一義」素描

 「第一義」は上越の人々の胸に合言葉の如くに刻まれ、唯一残る遺品の扁額は謙信と上越の人々とを結びつけてきた。これまでの様々な「第一義」解釈に共通するのは、謙信が故郷の英雄であること。武田信玄の「風林火山」に対応する「第一義」は、謙信を象徴し、地域の謙信信仰を支えてきた。

 漱石は高泉の書に刺激を受け、「人生の第一義」を「道義に基づく生き方」だと描いてみせた。それと同様に、故郷の英雄の残した「第一義」は謙信の生き様に倣い、従おうというメッセージだと類推しよう。校是は地域の人々の謙信への気持ちを代表した宣言になっていて、人々は謙信を信じ、倣いながら、何の「第一義」かを漱石風に臨機応変に盛り込んで、解釈してきたと捉えることができる。例えば、「人生の第一義=謙信に倣って人生に真摯に対応すること」と図式化できる。要は、何事であれ、謙信を真似て難題に立ち向かえ、ということ。

 こんな謙信基準を暗黙裡に設定するという芸当は、上越の人たちの懐の深さによるのか、単なる謙信頼みに過ぎないのか、私には何とも言えない。とはいえ、論理的に無理なことを敢えて「第一義」と見得を切り、見栄を張るのは校是の背後に篤い謙信信仰がなければできないことである。