妙高と飛鳥:地方と中央

  今年も6月22日の聖徳太子の命日に杉野沢の太子堂で太子講祭が行われたと聞きました。少し前に、私の生まれた土地が小出雲と呼ばれ、そのルーツを辿って出雲と蝦夷の話をしました。そこに関山神社の秘仏を置くと、日本海側の出雲、若狭、北陸、そして越後から北国街道を通って信州、さらには飛騨に及ぶ帰化人たちに依存した文化圏が浮かび上がってきます。

 聖徳太子等身像として造られたのが「救世観音」なら、推古天皇30年(622)の太子の死に際して造立されたことになりますが、この像が7世紀前半につくられたのは確かで、木造、漆箔、像高178.8cm。私より背が高い(?)。一木で彫られ、漆などを塗り、金箔を押しています。秘仏夢殿救世観音像が、岡倉天心フェノロサの手によって開扉されたのは、明治17年(1884)の古社寺宝物調査。

 

 その岡倉天心の終焉の地が赤倉。すぐ近くには関山神社があり、出雲、北陸に着いた大陸からの仏像の一つが7世紀に百済で造られた銅造菩薩立像(重文)。朝鮮からの渡来仏とされていますが、その姿は夢殿の救世観音にとてもよく似ています。二つの像を横から見ると、それがよくわかります。大きな違いはサイズと材質。木造の救世観音は日本製であり、帰化した仏師の手になると考えられています。

 太子講、法隆寺岡倉天心、救世観音、菩薩立像、さらには斐太と飛騨とを並べると、歴史のつながりが浮かび上がってきます。出雲が国を譲り、蝦夷の地域に入り、大陸との交流から仏教文化が北陸、越後、信州へと伝播し、飛騨の仏師が奈良で活躍します。現在と変わらず、地方は中央と密接に繋がっていたのです。

 「斐太」、「飛騨」、「日高」はどれも畿内から見て東の地域を指していて、今でも地名などに名前が残っています。斐太神社は言わずと知れた妙高市延喜式内社。主祭神大国主命で、出雲との繋がりを示しています。一方、今の飛騨地方は7世紀には斐陀国造領域を中心に律令国として成立しました。高山市にあるのは(飛騨ではなく)斐太高等学校です。当時辺境地帯を除けば最も過疎地域で、税制上の特例が認められ、庸、調を免除され、大工(飛騨工)が徴発されました。その飛騨出身の鞍作止利は渡来系の仏師として有名です。法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像(623年)が彼の代表作。さらに、法隆寺以外にも「止利様式」と呼ばれる同系統の仏像が現存します。中国北魏の仏像の様式の影響を受けたアルカイックスマイルに止利および止利式の仏像の特色があります。

 

*関山神社銅造菩薩立像

 法隆寺夢殿救世観音菩薩像(Wikipedia

 法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像Wikipedia

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銅造菩薩立像

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銅造菩薩立像

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法隆寺夢殿救世観音像

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法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像