アウグスティヌスの時間(5)

過去と未来が存在せず、現在だけが存在すること(=現在主義)
 時間は普通、現在、過去、未来に分けられます。でも、アウグスティヌスは現在のみが存在すると考えています。これはどういう意味なのでしょうか。アウグスティヌスにとって、現在の時点が過去になるならば、それはもはや存在せず、また、あることが未来であるのならば、それはやはり存在しません。なぜなら、過去はもうすでに過ぎ去って消えていますし、未来はまだ到来しておらず、経験していないからです。さらに、アウグスティヌスは「……存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在としてのみ存在する」と述べています。つまり、過去や未来も、それ自身が現在となる時点では、現在として存在するのです。でも、時間が経過し、現在として存在するという時点が過ぎ去ると、たちまち過去となり、存在しなくなるのです。
 過去は、それが現在であったとき、存在するということが成立していて、未来は、それが現在となるとき、存在するということが成立するようになります。しかし、その時点で過去や未来の場合、過去はもう存在せず、未来はまだ存在しないのです。このような考えは現在主義(presentism)と呼ばれています。アウグスティヌスは現在主義の立場から、過去、未来の非存在を唱えました。
 アウグスティヌスによれば、神は過去、現在、未来を同時にすべて見ることができますが、人間には現在だけしか存在しません。ここで一つ疑問が生じてきます。未来は私たちがまだ経験していないことですから、まだ存在しないと考えても違和感はないのですが、過去が存在しない、過去になったその瞬間に存在しなくなるというのは、どのようなことなのでしょうか。私たちのように時間の中に生きるものは、過去に遡ることができません。なぜなら、過去の時間は、過去であるので、もう存在しないからです。一瞬前の私はもう存在しないし、机にしても、現在目の前にあるのは、現在の机であって、一瞬前の机ではありません。この考えに納得できる人は少ないと思います。それが正しいとすれば、私たちは持続した知覚を持つことができません。でも、私たちの知覚は持続し、バラバラにはならず、今あるものと以前にあったものは同じで、時間が過ぎ去ったと感じることができます。これはどのようにして可能なのでしょうか。
 過去や未来は存在しないので、計測して長い、短いなどということはできず、過去、未来の時間は計測することができません。でも、私たちは「病院の待ち時間が長かった」、「この仕事は長くかかるだろう」などと言うことができます。なぜなら、それはただ現在であったそのとき、長かったからなのです。もう過ぎ去ってしまったり、まだ到来していなかったりした場合は、存在しないので、長く存在することもできません。でも、現在は存在するので長くあることができます。私たちが経験していた(経験するだろう)その過去や未来は、経験しているその時点では過去や未来ではなく、現在だった(現在である)のです。さて、ここまでは現在が計測できると想定していますが、実際に現在の時間は計測できるのでしょうか。アウグスティヌスはできないと考えました。時間を計測するには、その時間がある一定の長さをもっていなければなりません。アウグスティヌスは、現在という時間が持続するかどうか考察しました。彼によれば、百年が現在のままであるかどうか考えると、最初の一年が経過しているとき、その一年は現在ですが、他の九十九年は未来です。第二年が経過しているとき、最初の一年はすでに過去であり、次の一年は現在であり、他の年は未来です。ですから、百年は現在であることができません。同じように、一時間も同じように過去と未来に分かれるので、現在という時間は一時間の長さももたないということがわかります。このように、現在が少しでも持続している、幅があるなら、それは過去と未来に分かれます。アウグスティヌスが述べているように、現在と私たちが呼んでいる中で、すでに経験したものは直ちに過ぎ去り、過去となり、これから経験するものは未来となるので、現在という時間は持続しません。私たちが普段考えている、長さを持つように見える現在は、習慣的な思考が産み出したものに過ぎません。
 アウグスティヌスは時間を計測できる条件について、次のように考えています。私たちは、現に過ぎ去っている時間しか計測できません。また、物体の運動の始点と終点を知覚しているときのみ、時間を計測できます。アウグスティヌスは、現に過ぎ去っているときかつ、その始点と終点を知覚していなければ時間を計測することはできない、と考えています。彼の考えを確認してみると、私たちは知覚することによって、時間を測るので、すでに存在しない時間や、まだ存在しない時間は知覚できず、測ることができません。ですから、知覚できる今の時間だけを測ることができるということです。また、始点と終点を知覚していなければ、長い間物体の運動を見ていたとしても、いつ始まったか、またはいつ終わるかがわからないので、それが長いということは言えても、どのくらい長いかを測ることはできません。そのため、物体の運動の始まりと終わりを知覚することが不可欠となります。これまでの考察から、過去、未来は存在しないので、現に過ぎ去っているものでない上に、始点と終点も知覚できません。また、現在も幅を持たず、一瞬のうちに過ぎ去ってしまい、もはや過去になってしまうので、現に過ぎ去っているときに計測することは不可能であり、始点と終点を知覚することもできないということがわかっています。よって、アウグスティヌスの考えに従えば、時間は計測できないという結論が出てきます。
 アウグスティヌスの現在主義では、存在するのは現在だけなので、過去や未来は存在しません。ですから、存在しないものについて語ることはできないので、過去や未来について私たちは何も語ることができません。そうであるにもかかわらず、私たちは日常、過去や未来について当然のことのように語ることができます。アウグスティヌスは、この矛盾を回避するために、「過去と未来を別の姿で現在のうちに捉える」という解決策をとりました。過去は記憶、未来は期待として現在に存在するとしました。でも、ここに疑問が出てきます。過去は、記憶として現に存在すると言われるのですが、忘れたものについては、どうでしょうか。忘れたものは、記憶として残っていないので、完全に存在しないということになるのでしょうか。神は、すべてを知り、把握しているので人間が忘れたとしても、神はすべてを見ているので存在しないことにはならない、とアウグスティヌスは答えるのではないでしょうか。でも、私たちが知りたいのは認知症の人の過去や、人間の忘れる記憶についてです。
 アウグスティヌスのこのような議論は失敗なのでしょうか。私は成功していないと思います。