因果の世界=物語の世界=縁起の世界

 因果性(causation)は人間が太古より変化を捉える原理、あるいは前提になってきました。神話や物語は因果性に基づいて構成されています。後世のアリストテレスの4原因説も因果的世界観の要約のようなものです。これは仏教世界でも同じで、「縁起の法」と呼ばれてきました。私たちは自分の住む世界を因果的に理解するという習慣を守り続けてきました。因果性を理論から追放した物理学でも、その理論を解釈する際には因果的な解釈をしないことには理論の内容が理解できません。というのも、私たちは世界で起こる時間的な変化を(歴史的な)物語として理解し、表現しているからなのです。
 因果性は「縁起」と呼ばれ、仏教の根幹を支えています。「縁起の法」は、釈迦の悟りの本質で、「すべては種々の因(直接の原因)や縁(間接の原因)によって生じる」と主張されています。つまり、すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しているのではなく、原因や条件に依存して、他との関係の中で生起しているのです。世界のすべてのものは、相互依存によって存在し、自分だけで存在しているものはありません。縁起の法は、過去の原因が未来の結果を生むといった時間的な因果関係だけでなく、時間、空間を含むあらゆる現象にかかわるのです。ここまでのことは何か特別な主張ではなく、至極当然のことです。
 大乗仏教では「空(くう)」「無自性(むじしょう)」「仮(け)」が強調されます。縁起の法に基づいて、「すべてのものは、固定した実体がない=空である」、「すべては無自性で、実体を持って存在しているのではなく、仮に設定されたもの、現象したものである」という結論が導き出されます。
 日常生活で「現実、現象」と呼んでいるものは縁起の法に基づいています。 私たちの日常世界は、私たちの感覚器官を通して入ってきた情報を脳で処理し、解釈したものにすぎません。 それは五感と脳によって情報処理されたものであって、実際に外界に存在しているもの自体ではありません。
 この意味で、生き物が経験している世界は、それをとらえる生き物の側の、様々な肉体的・精神的な条件によって、様々に作り出される「仮象」に過ぎません。よって、「現実とは、生き物の数だけ存在する」ことになります。これを言い換えれば、「現実」とは、その「現実」を「観察する側」から独立した実体を有しておらず、「観察する側」が変わるとまったく変わってしまうことになります。それは、「観察する主体」と「観察される客体」との相互関係によって現れてくるものに他なりません。縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説き、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」という仏教思想の基本になっています。「因果的に相互作用し、依存しあっている現象は仮象に過ぎない 」という主張は典型的な観念論で、意識の世界に重点を置く考えが仏教思想ということになります。
 縁起の法は、原始仏教から大乗仏教密教に至る仏教の変遷の中で、その解釈も大きく変化してきました。 まず、原始仏教の縁起説は、十二支縁起(十二因縁)説のように、「生き物の苦しみの原因(とその除去の方法)」を説くものでした。次に、部派仏教時代には、「業感縁起説(ごうかんえんぎせつ)」が説かれ、縁起の法は「過去世・現在世・未来世の三世にわたる業(カルマ)の因果関係を表すもの」と解釈されました。さらに、部派仏教時代になると、「人(にん)」には実体がないが、人などを構成する物質や心といった客観的な事物「法(ほう)」には実体があると考えられました。(これはロックを彷彿させます。)
 また、『般若経』などの大乗仏教では、「一切は空」として、実体的な存在は何一つありません。(これはロックに残っていた実体を否定するヒュームを彷彿させます。)ここでの「空」とは、固定的な実体がない、という意味の仏教用語。 そして、この空の理論はナーガールジュナらによって完成されましたが、彼は、「あらゆる存在が、縁起によって成立している、すなわち、相互に依存しあって存在している」と論じました。さらに、「あらゆる存在を表現する言葉自体まで、縁起によって成立している」と考えました。
 このように説かれると成程と感心してよいのでしょうが、その基本的な考えに基づいて世界の現象や出来事を記述し、説明する理論をどのようにつくるかがすぐに心を捉えます。「あらゆる現象は縁起によって成り立っている」と言われても、「眼前の現象を知りたい、明日何が起こるか知りたい」という私の好奇心は満たされないのです。ヨーロッパの哲学によっても、東洋の仏教によっても、私の眼前の好奇心が満たされないとなれば、それらはどのような好奇心を満たすのでしょうか。