曖昧で、不確定なもの

 近視の私に見える風景は曖昧で、ぼんやりしている。電車や自動車に乗って、知覚像が揺らぐのも何度も経験済みである。曖昧で、揺らぐ知覚像はわかるのだが、概念や対象はどうなのだろうか?概念は曖昧で、揺らぐのか?それとも、曖昧で、揺らぐのは対象なのか?あるいは、概念も対象もともに曖昧で、揺らぐのか?こんな問いが次々と浮かび上がってくる。
 概念がファジー(fuzzy)だと、いつでもどこでも同じ対象を指さないことになり、対象がファジーだと、いつでもどこでもその対象は不安定で、曖昧になる。対象については、雲や霧を思い起こせば、近いイメージが得られるのではないか。雲の形は茫洋として曖昧であり、表現が定まらない。

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ルネ・マグリット「大家族」1963

 さて、「揺らぐ概念と揺らぐ対象は同じことである」という主張は正しいだろうか。概念と対象は異なるから、「揺らぐ」という謂い回しが同じように使われても、二つは異なる、と考えるのが普通ではないのか。だが、形式的には二つのモデル、一つは揺らぐ概念のモデル、他は揺らぐ対象のモデルをつくり、それらが同値であることを証明することは困難ではない。「揺らぐ」ことを具体的に示す知覚的なイメージは概念と対象の両方のモデルで同じであることが可能であり、それは取りも直さず二つのモデルが同値であることを示している。  
 それらとは対照的に、古典的概念と古典的対象を捉え直すことができる。古典的概念はその外延が確定していて、揺るがない概念であり、古典的対象は輪郭が確定した、揺るがない対象である。つまり、「古典的」とは「ファジーでないこと」なのである。古典的概念も古典的対象も私たちが日常的に慣れ親しんでいるものであり、私たちは確定的な古典的世界で生活していることになっている。普通はそのことが暗黙の裡に前提されていて、日常生活はそれで何ら支障はない。

 では、対象としての「点」はどうか?点にはサイズがないのだから、確定しているとかしていないとかの基準は対象の姿恰好にはない。概念としての「点」は外延が明確かどうかという問題で、これは有意味である。サイズのある対象は対象として確定的であっても、概念としては曖昧であることがありうる。横の女性が誰かは確定していても、本当にその人が美人かどうかは曖昧な場合がある。一方、素粒子の概念は定まっていても、対象としての素粒子の振舞いは曖昧で不可思議である。

 概念としても、対象としても曖昧で揺らぐことがあり、概念としても対象としても確定している場合はむしろ稀なのである。

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 では、概念や対象以外はどうだろうか。揺らぐ信念、揺らぐ感情、揺らぐ心、揺らぐ決心、揺らぐ意識等々、心的なものについては曖昧で、揺らぐものばかりになる。心的なものは揺らぐものと言い換えてもいいと言わんばかりである。だから、物理世界は確定的でも心理世界は揺らぎに揺らぐ疾風怒濤の世界と捉えられてきたことも頷ける。今はどちらの世界も曖昧で、揺らぐ世界だと考えるべきである。