感情を学び、感情を表現する

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 私たちの原始的な感情に形を与えるのは表情や身体表現であり、その結果私たちがもつ怒りや悲しみは感情という形式の表現として(私たちの心の中に)存在することになります。「怒り」という感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって学習され、その結果ステレオタイプ的にでき上がります。つまり、原始的な感情が学習によって形式化され、「怒り」や「悲しみ」として言語的に表現することが可能になるのです。ですから、子どもの内面に「怒り」の感情があって、それが表出して「怒り」の表情や身体表現になるのではありません。他人の「怒り」の表情や身体表現を模倣し、その表現に伴う情動が内面化され、原始的な感情から「怒り」の感情が形として現れるのです。原始的な感情は曖昧模糊としたもの、それが学習によって複数に分類され、それぞれに呼び名が与えられ、子供はそれを表情や身体表現を通じて学ぶのです。これは子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察してみればわかることです。他人の表情や身体表現の模倣に熟達するにつれて、子供の感情は深まり、多様化していきます。
 子供は「怒り」を大人の表情や身体表現から学びます。恨みつらみ、くやしさ、嫉妬等々、人は実に複雑に原始的な感情を細分化し、それによって心が豊富な感情をもつかのように演出してきました。したがって、感情は他人の表情や身体表現を模倣することによって生まれるわけですから、表情や身体表現抜きの、いわば「純粋感情」などというものは存在しにくいことがわかるでしょう。でも、原始的な感情が何か判明でないとき、言語的に表現されない感情があるかも知れないという可能性は否定できないのです。

 このように考えてくると、多くの人はチョムスキ―のデカルト的な言語学を思い出すのではないでしょうか。彼は普遍文法の提唱者として有名です。チョムスキーの文法生得説の根拠となっていたのが、「プラトンの問題」です。その問題は以下のようなものです。

 

「外界から与えられる情報は、個別的で、量的に限られるのに、なぜ人はこれほど豊かな知識を共有しているのか。」

 

 これを言語知識にあてはめてみましょう。すると、「言語の発達過程にある幼児が聞く言葉は、幼児ごとに異なり、量的に限られ、不完全である。それなのになぜ、ほとんど無限に近い文を発話したり解釈したりできるようになるのか。」、「獲得した文法は、同じ言語共同体でほぼ均一であり、与えられた言語情報から帰納できるものをはるかに越えた豊かな知識である。それはなぜなのか。」となります。私たちが実際に母語を話すときには、はっきりとその根拠がわからないような文法の知識を数多く使いこなしています。例えば、「太郎は学校へ行った」、「太郎が学校へ行った」のような文を多く聞き、幼児は「は」と「が」が置き換え可能だと学習します。でも、母語の獲得をほぼ終える5歳頃の幼児は、「誰が学校へ行ったの」は文法的に正しいが、「誰は学校へ行ったの」は文法的に正しくない、と直感的に知ることができます。では、「誰は学校へ行ったの」は、なぜ文法的に正しくないのでしょうか。それは、日本語の助詞の「は」は、ある名詞句を既知の事柄として取り上げ、文の最初の位置に持ってくる、という機能を果たしているからです。この名詞句は、その文に先行する文脈の中に既に何らかの形で登場していなければなりません。したがって、「誰は学校へ行ったの」が文法的に間違っている理由は、「誰」の指示する対象が決まっていないからなのです。このような文法知識を、親や周りの成人から教えられることはまずありません。にもかかわらず、日本語を「習得」した全ての人には、「誰は学校へ行ったの」は文法的に正しくないのです。
 プラトンの問題の骨子は「獲得した言語知識は、同一言語共同体でほぼ均一であり、与えられた言語情報から帰納できるものをはるかに越えた知識である。それはなぜなのか。」ということです。チョムスキーは、幼児が生得的に持っている「普遍文法」は、意識されない知識で、教えることも教わることも困難であると考えます。事実、親や周りの大人は、幼児に母語の文法を説明したりしません。「普遍文法」を幼児があらかじめ持っているのだと仮定すれば、幼児が大した努力もせず言語を獲得することや、私たちが文法知識も持たないままスラスラと母語を話せることが、何の不思議でもなくなります。そして、一定の年齢を過ぎると、その「普遍文法」を媒介変数によって個々の言語に対応できるように「調整」する能力がなくなってしまう、と仮定すれば、大人になってからの外国語の習得が多大な苦労を伴うことも説明がつきます。
 でも、前例の「誰は学校へ行ったの」は、経験論的立場から言えば、これが文法的に正しくないことがわかるのは、「誰」という語の次に、「は」という語が現れる文を聞いた経験がないからだ、ということになるでしょう。事実、スキナーなどの行動主義的アプローチによる言語習得理論では、語と語の連結に関する知識の習得は、過去にある語とある語がどのように連結して大人のことばに出現していたか、という「生起率」によって決定される、としています。例えば、theという語は、girl,dogなどという語が次に来ることが、過去の生起率から高いと考えられます。いきなりisが来てThe is...というような連結が起こることは通常考えられません。文法とは、この生起率に関する膨大なリストに他ならない、と言うのです。
 これに対し、チョムスキーは、「Colorless green ideas sleep furiously.」という有名な文を例に挙げて反論しました。この文で連結されている、colorlessとgreen、greenとideasなどの間に、過去に聞いた文で連結があった可能性はゼロと思われます。「色のない緑色」や「(色のない)緑色の考え」など、ナンセンス以外のなにものでもありません。同様に、ideasとsleep、sleepとfuriouslyの間にも連結は普通考えられません。にもかかわらず、英語を話す人には、これは意味はおかしくても、文としては可能だと感じられるのです。ところが、「Was he went to the newspaper is in deep end.」は、それぞれの相前後する語の間の生起率はかなり高そうですが、文になっていないことがわかります。このような文法的直感を、先の行動主義的アプローチによる言語習得理論では説明できない、とチョムスキーは主張します。
 生得説を主張する研究者も、環境からの入力が不必要だと言っているわけでは決してありません。環境からの入力が欠如すると、言語習得が行われないことはよく知られています。「野生児」や養育放棄されて育った子供は言語をまともに習得できません。それら事例は入力欠如の影響の深刻さを極端な形で示しています。
 原始的な感情を生得的な普遍文法に、個々の言語をそれぞれ個々の感情に対応させ、入力される言語情報が表情や身体表現の認識と捉えるなら、チョムスキ―と同じような考えを使って感情の理解が可能となるのではないでしょうか。

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 原始感情についての生得的な原始文法があることをまず認めましょう。そこから現在の感情の文法がつくられます。それらは言語の文法には及びもつかないのですが、後天的に情報を獲得していくことによって、私たちの中に自然の感情が生まれてきます。そして、文化や歴史の違いに応じて感情の異なる表現形式がつくられていきます。言わずもがなのことですが、感情の表現の形式や内容は、学習によって自分の感情として意識されるものになります。私たちの原始感情もそれを表現する形式に強い影響を受け、本来の姿を思い起こすことなどできないのですが、そのことは生得的な普遍文法を意識できないこととほぼ同じでことです。私たちは生得的にもっているものを直接に意識することができません。私たちが意識でき、具体的に感じることができるのは後天的に学習したものだけなのです。つまり、感情、そしてその表現は学習によって具体化され、経験できるようになるのです。
 あなたが「人類最後の一人」になったとしてみましょう。あなたは自分が「人類最後の一人」になり、大いに悲しみます。たぶん、その悲しみを涙を出したり、泣き叫んだりして表現するはずです。でも、どうしてあなたはそんなときにも「誰が見ても、それとわかる悲しみの定型」を忠実になぞるのでしょうか?誰もいないのですから、そんなことをする必要は全くないのです。純然たる悲しみの感情があるだけでよく、それを身体化する必要はないのです(何しろ見ている人は誰もいないのですから)。でも、誰も見ていない場所においてでさえ、「ああ、この人は悲しんでいるな」と他人にわかるような表情や感情表現を外に出すのです。そうせざるを得ないのです。というのも、表情や身体表現抜きで、輪郭のはっきりした感情をもち、それを維持することが私たちにはできないからなのです。日本語を話すどころか、自然言語を話す人が誰もいなくなっても、きっとあなたは日本語で嘆き悲しみ、日本語で叫ぶに違いありません。それと同じことが表情や感情表現についても言えるのです。
 このように見てくると、感情とは(言語が話し手と聞き手がいることで存在するように、役者と観客がいることで存在する)社会的な記号なのです。そして、表情や感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンのを賦活させますから、他者のうちに同質の感情を作り出すのです。自分の内面には「そんな感情」がなくても、それを真似て、演じているうちに「そんな感情」が自分のうちにも、そして自分を見ている人のうちにも生まれてくるのです。この仕組みも言語とほぼ同じです。記号体系としての言語はそれを使いこなすことによって人の意識を支配し、感情や欲求だけでなく、思考も生み出すのです。
 このような見方を最近の政治家に関する議論に応用してみましょう。他人の心を直接に操作し、動かしたい人、つまり政治家は、怒り、悲しみ、苦悩の演技に熟達していなければなりません。政治家は役者と演出家の一人二役をこなさなければならないのです。感情表現に熟達した政治家が「過剰に感情的」に見せるのは、計算の上のことで、当たり前なのです。以前の東京や大阪の知事は怒りを剥き出しにすることによってメディアの注目を集め続けましたが、これは計算ずくのパフォーマンス。新しいアメリカ大統領のように「怒り、叫ぶ人」は衆人の耳目を最優先に集めることができます。「怒る政治家」たちは、それを熟知し、巧みに利用しているのです。
 さて、ここで具体的な次元に眼を転じてみましょう。政治家に限らず、メディアに登場する知識人たちも、感情を抑制する努力を怠るようになってきました。たぶん、その方が自分たちの言い分を通す上で効果的だということを学んだからなのでしょう。「子どもらしく、大人らしく」「男らしく、女らしく」振る舞わなければならないという社会的規範がどれほど人の心を抑圧し、傷つけてきたかについて、私たちは飽きるほど聴かされてきました。「らしく」という抑圧的行動規範こそが父権制度を支えてきたのですから、人々は「らしさ」の呪縛から解き放たれねばなりません。人は「自分らしく」ありさえすればよいのです。それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきなのです。こんな主張が繰り返されてきたように思えます。でも、そんな主張を声高に叫んできた人々は表情や身体表現を通じての感情の習得ということについてどこまで真剣に考えていたのでしょうか。
 私たちは子どものときは「子どもらしさ」を学習し、それから段階的に「男らしさ、女らしさ」や「生徒らしさ」、さらには「年長者らしさ」や「老人らしさ」といった社会的な役割を学習していきます。さらに、育児や老親の介護を通じて、「子どもに対する親らしさ」や「親に対する子どもらしさ」といった親子の間の感情技を巧みに学習していきます。また、職業によって独特の精神や感情、信念を身につけていきます。そのようにして習得されたさまざまな「らしさ」という広義の表情が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めていきます。感情は学習によって成熟していき、歳をとっていくのです。
 「感情の学習」を中止して、「自分らしさ」の表現を優先させていけば、幼児期に最初に学習した「怒り、泣く」といった「原始感情」に限りなく近いものだけを選択的に発達させた人間が出てくるかも知れません。そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという「利得」をもたらしています。「怒っている人間、泣いている人間は最優先に面倒をみなければならない幼児」という刷り込み、思い込みが生きているからです。でも、現在の私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」に多くの人々がうんざりし、私たちの社会が「大人のいない社会」になることを危惧し始めています。
 怒りも悲しみも行為に近いものです。何かをするかのように私たちは感情をもち、それが実際に何かをするきっかけとなります。また、何かをしたいという欲求は行為と見分けがつかないほどです。原始感情は遺伝的な感情です。赤ん坊の「泣く」、「笑う」はそのような原始感情です。それが表情や身体的表現によって学習され、私たちが共有する感情となります。感情は優れて社会的なのです。