宗教(と)美術

 ブッダの仏教に美術はないが、それが大乗仏教にシフトすると、仏像、仏画、仏具、そして寺院がつくられ、豊かな仏教美術が花開くことになる。「美のための美」ではない宗教美術をどのように理解するかは未だに私には難題でしかない。子供の頃によく聞いた「仏像がありがたい」という祖父母の言葉が何を意味していたのか、今の無神論者の私にはその意味は不明のまま。ルネッサンスの絵画や彫刻を楽しみ、味わう際にキリスト教の知識を使うが、キリスト教徒として祭壇画やマリア像を拝む訳ではない。聖人像も仏像も美的な観点を第一にして観てしまう。だが、仏の世界を信じていた頃の私(小学生時代)はどうだったかと問われると自信がない。仏壇の仏像や仏画をどんな風に観ていたか、それらをどのように拝んでいたか、認知症になったかのように記憶が曖昧で、明確に答えることができない。薄暗い教会で一心不乱に聖人像を拝む老人の姿に心打たれても、それを自らの行為として実践することができないのである。
 宗教的に仏像を拝むという習慣がなくなった私には、仏像は礼拝の対象ではなく、美的な鑑賞の対象である。むろん、本堂の中の如来像や菩薩像は信仰の対象としての威厳や優美さを十分に備えていることをわかっているつもりでも、それら仏像が彫刻として素晴らしいかどうか、それをもっぱら考えてしまう。実際、美の極致は宗教が関わる美術に数多く表現されてきた。ルネッサンスの絵画や彫刻の鑑賞には美の基準だけでほぼ問題はない。ダ・ビンチもミケランジェロキリスト教とは独立にその価値が評価されてきた。ミケランジェルの「ピエタ」も「ダビデ像」も私たちは同じ基準で捉え、称えてきた。ダ・ビンチやミケランジェロ曼荼羅図、阿修羅像、弥勒菩薩像、さらには五重塔を観たら、一体どんな評価をするだろうか。ゴッホが広重の浮世絵に惹かれたように、彼らは仏教美術に惹かれるだろうか。
 故郷に見事な仏像や仏画があれば、誰もそれを誇りに思う。国宝が国の誇りであるように、自らの故郷の文化遺産は故郷の誇りの一つ。寺院の仏像は信仰のきっかけや象徴に過ぎず、信仰者にとっては美術品である必要などないのだが、拝む仏像が信仰を助長するためには美術品として優れている方がよいに決まっている。過去の多様な宗教が生み出した遺産を理解しようとすれば、信仰だけでは多様な宗教文化を理解できない。それを理解しようとすれば、その基準の一つは「美」。人の心を魅了する美を使って、人は宗教の歴史を知るのである。
 宗教は芸術を生む。私たちはその芸術を通じて宗教に近づくのである。さらに、自ら信仰する宗教とは異なる宗教を知るのも芸術(や儀礼)を通じてであり、宗教美術は宗教教義、信仰体験の表現という役割をも担っている。