人工的に見える、自然的に見える

 今のところ、人が作り出した生命体はない。自然の所産に人が部分的に手を加えたに過ぎない。犬も馬も、そして園芸品種も私たちがつくったものだが、どれも部分的な改変に過ぎない。とはいえ、私たちは見かけの姿に手を加えて、自然とは違う形態を生み出してきた。それが、いわゆる「人為選択」であり、自然選択を人が真似たものから始まり、今では遺伝情報をもつDNAを直接に弄っている(ワクチンも然りである)。

 「人工」という幻想、「自然」という幻想が20世紀までは通用してきたが、それらが幻想であるという考え自体が淘汰されてきた。「人工的」なものから「自然的」なものへと、まずはこれまで載せたものの中で視覚的に見比べてみよう。

トケイソウ

ストレチア・レギナエ

ヤグルマギク

ジャーマン・アイリス

バラ

ヒナキキョウソウ

 例えば、最初のトケイソウ(時計草、パッションフラワー、passion flower)はトケイソウトケイソウ属の植物の総称。名前のように壁掛けの時計盤のような花をもつ。英名は「情熱の花」ではなく、「キリストの受難の花」。イエズス会の宣教師らが flos passionis と呼んだものの英訳。16世紀、原産地の中南米に派遣された彼らは、この花をアッシジの聖フランチェスコが夢に見た「十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用した。彼らによれば、花の子房柱は十字架、3つに分裂した雌しべが釘、副冠は茨の冠、巻きひげはムチ、葉は槍などと解釈された。今の私たちとは随分違う。

 概念的に人為選択を自然選択の一つだと考えれば、人工的、自然的の区別は消失し、どれもが自然の中での作品ということになる。私たち自体が自然の所産であるから、自然の所産が作り出したものも自然の所産だと考えることに不自然さはない。

 これらの中で野生の植物はヒナキキョウソウだけだが、私たちはそれぞれの花に人工的な印象、自然的な印象をその由来とは別に持つのではないか。「人工的」、「自然的」の感覚的印象はそれらの概念的違いとは連動していない。自然を数学化して捉える代表例は幾何学的な図形化だが、図形の組み合わせで花の形態を捉えるのとは別に、感覚印象によって捉えることが考えられるが、上記の花々を私たちはどのように人工的、自然的と捉えたのか、それぞれの花の造形美を楽しみながら、自問自答してみてほしい。

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トケイソウ

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ストレチア・レギナエ

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ヤグルマギク

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ジャーマン・アイリス

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バラ

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キキョウソウ