知識帰命の異安心:日曜日の安心

 日本には浄土真宗の寺が圧倒的に多く、当然多くの国民が門徒ということになります。その浄土真宗には、「知識帰命の異安心(ちしききみょうのいあんじん)」という言葉があります。知識は指導者、帰命は帰依すること、誤った真宗教義が異安心(いあんじん)。つまり、「知識帰命の異安心」とは、「阿弥陀仏ではなく、指導者に帰依することは誤りである」という意味です。

 知識帰命の異安心は、親鸞の弟子である唯円が著したと言われる『歎異抄』にも述べられています。そもそも「歎異抄」というタイトルは、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味です。親鸞浄土真宗の開祖ですが、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ(『歎異抄』第6章)」と、自らに帰依することを嫌いました。特定の指導者への帰依を強調することは、浄土真宗に限らず、宗教が陥りやすい誤りです。仏教は、釈迦への帰依を基本としますが、釈迦自身も「私の悟った法は、過去にも悟る者がいたし、未来にも悟る者がいるだろう」と語っています。とはいえ、信者は釈迦や親鸞を崇拝し、彼らなしに仏教や信心が成りたつとは考えず、指導者とその教えがはっきり分けられていません。そのため、『歎異抄』で問題にされる異安心は、あくまで親鸞の教えに対する異安心なのです。

 科学者と科学理論に分けた場合、私たちが真理を追求する際に問題にするのは科学理論であり、それを生み出した科学者ではありません。物理現象を解明するとき、誰も物理学者の意識や思想を解明しようとはしません。科学者の話やエピソードが話題になっても、それはあくまでその科学者が生み出した理論や技術を理解し、さらに研究するための助けに過ぎません。

 では、このようなきちんとした区別が思想や宗教にあるでしょうか。哲学も相当にあやしいもので、明確な区別がないところにむしろそれらの分野の特徴があるのです。正に、知識帰命の異安心です。プラトン、カントらの哲学は独自の内容をもち、彼らの哲学の研究はそのままプラトン哲学、カント哲学と呼ばれ、哲学理論と哲学者の考えが見事に重なっています。カントの哲学の研究はカントの研究と同じことになります。ですから、かつて「哲学が専門だ」と言うと、必ずや「誰の哲学を研究しているか」と聞かれたもので、それがかつての常識でした。哲学がこの有様ですから、思想や宗教となれば、思想家や宗教家はその思想や教義と同一視されます。いや、そのような一体化こそが思想や宗教を科学知識を超えたものにしてきたのです。

 科学はその研究において、知識帰命が誤りであることを実践してきました。でも、その科学と区別するために思想や宗教が採用してきた方法は、思想家や宗教家と結びつけて思想や宗教を捉えてきた点に特徴があったのです。ですから、浄土真宗が「知識帰命の異安心」を主張することは自らの否定につながる危険をもっているのです。親鸞に帰命するのも、釈迦に帰命するのも誤りで、ひとえに阿弥陀仏や仏法に帰命すべきということになれば、浄土真宗のみならず仏教さえ否定しかねないことになります。

 このような私の主張こそ異安心だと信心深い日本人は考える筈なのですが、是非反論があれば、聞いてみたいものです。