「瞬間」と「現在」の古典性

 昨日は「現在」や「今」について考えた。ところで、「物理的な対象や性質はいつでもどこでも決定していて、それゆえ決まった値をもち、私たちがそれを確かめることができるかどうかには関係ありません」というのが古典的な物理実在論の基本主張である。そして、ガリレオが第一性質と呼んだ「物理量」は客観的な量として実数を使って表現できることになっている。そして、そこには人間の考え、意識、知覚経験などは関与しないことになっている。だから、物理世界は人間とは独立した客観的な性質からなる客観的世界ということになり、冷たくとも正確で信頼できる古典的世界像が成り立つという訳である。そして、「瞬間」や「現在」という概念もそのような世界像を支える古典的概念である。
 「正確である」ことを表現する術を知覚はもっていない。目を凝らし、耳を澄ますことしかできない。だから、知覚は経験を味わうには相応しくても、その結果を表現するには向いていない。そこで、言葉を尽くすことになるのだが、それには職人技が求められる。そこで、私たちは数学に頼ることになった。私たちは重さを感じることができるのだが、「53kg」は感じられない(つまり、私たちは53kgに相当する重さは感じることができるのだが、「53kg」は感じることができない)。53kgは正確な値だが、感覚される重さは曖昧な幅のあるもので、しかも個人差が大きい。

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 「正確さ」は感じることができない。だが、感じたものを別の表現の仕方によって正確にすることはできる。「瞬間」は本能的な感覚で、それは動物が生存するために不可欠な感覚である。瞬時に反応しないと殺される危険がある。だが、それを表現しようとすれば実数や点を使う必要があった。実数や点は「瞬間」や「現在、今」の解釈、表現として、実に見事で手際がいいのだが、私たちの本能的な感覚としての「瞬間」や「現在」を正しく解釈、表現しているかと言われるとよくわからない。とてもスマートで綺麗で、モデルをつくるには適しているのだが、私たちの実際の感覚的な「瞬間」や「今」は反応時間のように幅をもったものでなければならない。
 時間や空間は物理対象のように直接知覚することができない。それらは見たり触ったりできない。「夕方になった」と感じることができるが、夕方は知覚できない。「5時30分だ」と知覚できないが、時計を見てそれを知ることができる。時間や空間に関わる事柄は知覚できる、知覚できないという区別が実に微妙で、そのため、大抵の場合、時間と空間は知覚経験ではなく、時計や物差しを通じて、つまり数学的知識によって理解されてきた。
 古典的世界観は古典物理学が描く世界の基本枠組みを基礎にしていて、古典的な物理世界の確定性がもれなく認識できることになっている。すると、「瞬間」も「現在」もある実数や点として表現されることになり、限りなく正確な各時刻、各地点での状態がわかることになっている。そのような「瞬間」や「現在」は経験できない。特に、感覚経験は望めない。だから、古典的世界観は私たちがいない世界ということになる。一方、哲学者たちは私たちがいる世界で私たちが感じる「瞬間」や「今」を明らかにしたいと思っていて、感覚的な瞬間や今に拘泥することになる。
 私たちの「瞬間、今」は、本能的な間髪入れない反応の表現と、学習による点や実数を使った表現とがミックスしてでき上がった概念である。だが、実際のところ、どのようにミックスしているのか誰もよく知らない。ミックスなどしないで片方だけで通すのがすっきりしているのだが、生活世界での私たちは実益を優先するためミックス型を選んできた。ベルクソンハイデッガーが前者を主にして、物理学者は後者を主にして時間を考察し、したがって、瞬間や現在を考えてきた。それらの知識を受け継ぐ私たちは、瞬間や今を時には本能的、感覚的なものとして、時には点や実数で表現されるものとして、そして、ほぼ無意識に両方を含んだものとして理解し、使ってきた。
 だが、このミックスは実にいい加減で、見かけのミックスでしかないのだ。