子供が知ることは残忍なのか

 人間は子供も大人も残忍で、殺人は日常生活では珍しいことではない。学校で起きているのはいじめや学級崩壊だけではない。飼っていたウサギを皆殺しにした小学生がいた。万引きが行われ、大勢でホームレスを襲う。自分の親に毒を盛り、親の反応を冷静に観察した中学生がいた。計画的に同級生の首をナイフで切り、殺してしまった女の子がいた。このような「行為障害」をもつ子供が増えている。
 脳の成長と行為障害は強く関連している。2、3歳になると人の脳には人格の兆しが現れ、その人の個性、人柄、自我が芽生えてくる。その頃の子供は自我を認めてもらいたいという希望が強くなり、その希望が叶えられないと、いろいろな行動をとって訴えるようになる。それでも認められないと行動はエスカレートし、嘘をつく、人といさかいを起こす、物を盗む、物を壊す、自分より弱いものをいじめる、といった行為が出てくる。人格は9歳までに完成し、その後あまり変わらない。子供の頃の「自分は認められない」という感覚は、成人しても持続して、ストレス性の疾患、人格障害、不安障害、薬物中毒等の精神的な問題がしばしば起こる。
 このような話は今では珍しくなく、子供は実は残忍なのだと思われている。だが、自分の子供時代を思い出すと、何か腑に落ちないのである。今とは時代が違うと言えばそれまでだが、高々50年ほどで子供の本性が変わるはずがない。私も残忍な行為は数々したが、それは報道されるものとは随分異なっている。
 子供は素直で、純粋である
 子供は好奇心をもつ
 子供は執着する
 子供は限度を知らない
これらの性質を組み合わせると、子供は残忍だという結論が出てくる。それが大事なのではなく、子供のもつ強い好奇心が残忍な行為を引き起こすことに注意したいのである。
 自分の子供時代を思い起こしてみると、残忍な行為の記憶は幾つもある。だが、ストレスが原因で八つ当たりした思い出は僅か。大抵はいわゆる「生物虐待」だった。主に動物が犠牲になったが、植物も含まれていた。動物への虐待は主に小動物。人は「一寸の虫にも五分の魂」と言いながら、ハエやカを平気で殺す。それを迷うことなく真似るのが子供。トンボの翅を一枚とっても飛べるか、カエルの腹はどれだけ膨れるか、ミミズを切っても死なないか、ヘビは溺れないか等々の問いは大人に問うのではなく、自分で答えを見つけたいのが子供。いずれも純粋な好奇心である。危険な問いも多い。例えば、犬と猫はいずれが強いか、雄鶏と戦う方法は、ハチの巣を除去する方法は、といったことも子供心を捉えて離さない。動植物の内部構造を知りたいと思うと大袈裟には解剖が必要で、解剖すればその動植物は死ぬことになる。限度を知らない好奇心は対象を壊すことを厭わない。
 純粋な好奇心は倫理を無視するが、大人の好奇心は倫理を優先し、一定の規範内に限定されている。子供の好奇心は時には悪魔の好奇心になる。子供はmad scientist。だから、ゴリラとチンパンジーの交配を平気で夢想する。子供のような好奇心をもち、知ることを追求すると、知るために殺すことを厭わないようになる。大人は知るために殺さないが、子供にはそれがわからない。知ること、それも純粋に知ることだけを追求することは、残忍な知り方と言えるだろう。
 知ることの節度、知ることの倫理がないと、知ることは実に残忍な行為になり得るのである。知ることが残忍であることをまず知ることが大切になる。