ベルクソン『時間と自由』:量、質、そして、自由

 先日、量(quantity)と質(quality)について、それらは異なるもので、量は数学的に表現できるもの、質は直接に感じとられるもの、というような区別が広く受け入れられてきたようだと述べた。さらに次のように続けた。「それはアリストテレス以来の伝統である。量とは数によって表すことができるもので、身長や体重、国土や都市の広さ、山の高さ等、実に様々な量がある。そして、それらは物理量、統計量、情報量等々として学術的な概念として表現されてきた。一方、質は感覚的な色や匂い(感覚質、qualia)、製品の品質等、一般には数的な表現ができない、あるいはそれが困難と思われているものである。量と質とが異なっても、量も質も数を使って表現することが追求され、表現の範囲は次第に拡大してきた。表現に使われる数は実数が想定されるが、実際に使われるのは有理数(の一部)である。量も質も数で表現するには同じように工夫が必要で、量=数でも、質≠数でもなかったことに注意したい。」

 ところで、哲学好きの人間にはたまらない「量、質、自由」といった概念を上手く組み合わせたのがベルクソン。こんな組み合わせを取り上げるベルクソンは今でもとても人気のある哲学者で、そのフランス語の文章は実に秀逸。それを『時間と自由』を通じて探ってみよう。ベルクソンは数学がよくできた秀才なのに、数学を頑なに敵視し、「空間、量」と「時間、質」を対立させ、時間や質を空間や量として数学的に扱うことは誤りだと考えた。そして、その誤りを巧みに自由の問題につなげたのである。

 デカルト的な延長をもつ外延的なものは、量として客観的に測定できるのに対して、内包的なものは感覚的なもので、その質は感じられるだけで、その量を測定することはできません。ベルクソンはこのような対立の図式をまず設定して議論の準備をする。ところで、質と言えばクオリアqualia)。クオリアはこの種の議論に必ず顔を出す。例えば、同じソの音であっても、曲の中では様々な仕方で現れる。それは、それぞれのソが同じソではなく、他の音と繋がり合うことによって違う音の流れとして感じられる。この空間化できない、メロディーとしての時間の流れをベルクソンは「持続」と呼ぶ。空間化、等質化、記号化するということは、それぞれの過去の由来や痕跡を消すことである。しかし、メロディーのような持続は独特な由来や痕跡を残し続ける。
 第2章は数についての議論。空間化、等質化、記号化がどういうことなのかが明らかにされる。物事を数えることができるのは何故なのか。それは物事が単位として抽象化、等質化されているからである。それらは等質的、非連続的なので空間上に並べ、数えることができる。だが、持続する時間は本来、個々の事柄に応じて異なり、互いに融合する性質を持つので、空間化することができず、数えることができない。ベルクソンによれば、物理学は運動ではなく空間を記述している。各時点の静止した空間を並べたものが、物理学で記述される「運動」という訳である。物理学が運動や時間を取り扱う際、時間からは持続を、運動からは「動き」を最初から取り除いておき、空間を無限に微積分することによって、運動に近似したものを記述しているのに過ぎなく、運動そのものを記述していない、というのがベルクソンの主張。このように叙述すると、ベルクソンの考えがおかしいことはすぐわかるのだが、彼の文章を読んでいるとその独特のメロディとリズムに酔いしれ、賛同してしまう。
 第3章は自由についての議論。時間と空間を全く異なる概念と考えれば、自由について議論する際に決定論などは出てこないというのがベルクソンの考え。つまり、時間と空間を同じように扱うので、自由についての議論は決定論に陥るということである。ある行為とそうではない行為を併置し、比較するというのは、行為を空間化している証拠に他ならない。これは、その行為がなされた後に初めて可能になるので、まさにその行為がなされている時には、このように空間化することができない。自由な行為をした後に、その原因を探ることはできるが、それは決して行為の原因ではない。それは行為の結果なのである。行為は「原因から結果」というように起こるのではなく、原因と結果が持続の中で溶け合って起こる。溶け合っているから、過去の痕跡が残っていることになるが、過去の痕跡とはそれまでの全体験のことである。つまり、自由な行為とは行為者の全歴史と同じことなのである。ベルクソンはこのように論じることによって「決定と自由」のジレンマを解決したと思ったのだろうが、これでは余りに代償が大きいことがすぐにわかる。「選択」するということが人生のどこにも起こらないことになるのは明らかで、これは困ったことである。
 もしある人の行為の原因を探ろうとした場合、その人の全歴史を知らなければならなくなり、その人の全歴史を知るというのはその人そのものと同じである。その人の行為とその人そのものとは分割できず、そしてその時に人は自由。無理に分けて考えようとすると、決定論に陥ってしまう。しかし、ベルクソンは、人は日常生活の大半は決定論的なロボットとして生きている、と考えている。というのも、人格と行為、つまり原因と結果を分けて考える、つまり持続を空間化して考えることに慣れてしまっているからである。それでベルクソンは、自我を表層的なそれと根底的なそれの二つに分け、表層的な自我が時間を空間として捉えるのに対して、根底的な自我は持続の中に生きていると考えた。こうして、日常生活での表層的な自我は「決定と自由」のジレンマの中にいて、表層的な自我に救いはないことになる。
 ベルクソンは運動と空間を分け、物理学は空間の微積分をしてるだけだとした。量はどれだけ積み重ねても決して質には変化しない、とベルクソンは主張し続ける。彼の生きた時代にはまだコンピューターがなかった。コンピューターの計算能力をもってすれば運動をほぼ完全に再現できる。また、人の行為のシミュレーションもずいぶん正確になり、人間に近いAIがつくられている。このような状況では量とか質とかいう区別そのものがナンセンス。
 「主観的な感覚経験は数学によって空間的に表現することはできず、運動のような感覚経験は持続として直観されなければならない」という言明は耳に心地よく響くが、それがほとんど意味をなさない主張であることは明らかである。感覚が私的言語のように経験を表現していても、その経験が主観的、独我論的で誰にも話せないのであれば、どのような意味を持っていると言うのか。
(『時間と自由』Henri-Louis Bergson、中村文郎訳、岩波文庫、2001)

*私が大学二年生の「原典講読」で読まされたのがベルクソンIntroduction à la métaphysiqueだった。