息抜きの哲学

 致死率の高い感染症となれば最近ではエボラ出血熱で、時には8割が死ぬ。だが、厄介なのは致死率の低い感染症。いわば人と共存するようなウイルス。SARSに比べるとコロナは致死率が低いが、それだけに厄介。SARSの場合、ほとんどすべての感染者が重症化し、そのためすべての感染連鎖を検出し、それらを断ち切ることで封じ込めに成功したが、コロナは多くの感染者が無症候、軽症であり、すべての感染連鎖を見つけることはまず不可能。シンガポールは感染連鎖をほぼ完全に可視化し、それによって最初の流行をコントロールできた。日本は独自のクラスター対策を行っていて、今が正念場。

 これだけオーバーシュートの手前の状況で、「…かも知れない、…の可能性がある」などと言われ続けると、私たちのストレスはたまるしかない。「自粛疲れのストレス」といった表現は半ばマスコミのレトリックで、本当のストレスは政治家とマスコミが作り出す曖昧模糊とした情報が生み出すストレス。social distancingの実践らしく、出演者が距離を置くという優等生ぶり、知ったかぶりのキャスターの不勉強ぶり等々、そしてワイドショーには断片的な情報に基づいた議論が溢れている(基本再生産数R0=1なら、流行は起きずいつまでも定常状態。R0<1なら、ウイルスは消える。R0≩1の場合、例えばR0=2なら、流行は拡大。10世代感染連鎖が続くと 1+2+4+8+16+…+512+1024=2047。このような話さえ伝わっていない)。ストレス解放のために、哲学的な議論で憂さを晴らそう。

 確定した未来を知っている、選択肢がなく決定している未来、決定論的な世界、これらはどれも確定した未来があり、それを私たちが知りうることを意味していると多くの人は認めるのだが、それに対して、選択肢がある未来、確率的な未来、不明でわからない未来は当然私たちにははっきりわからず、非決定論は不安を生み出す。わからない未来は不安である。一方、「自粛、民主主義、自主性、権利」などは未来が決める余地をもつものでないと成り立たない概念である。未来が決定していたら、自由がそもそも成り立たない。決定論と自由は両立しないのである。

 「未来について何を知らないか知らない」、「未来について何を知っているか知らない」と不安がつのるのだが、半分知っていることは知ることでないのであれば、何も知らないのが未来であり、だから未来は未知で、好奇心を掻き立て、希望でもある。誰も何もわからないと不安なのか、それとも安心できるのか、そのいずれかは意外に似たもので、実は隣り合わせなのである。

 全知全能の反対はどうなるのか。神と違い、私たちは何も知らず、何もできないのでは重度の障害でしかない。全知全能の否定は、正確には「知らないものがある、あるいはできないものがある」に過ぎない。知らないものの探求は例えばコロナウイルスのワクチン開発であり、それは探求の価値のある未来であり、先行き不安の流行の未来と共存している。希望と不安の両方が共存するのが「未知の未来」ということになれば、決定論的に確定した未来など誰も望まないのではないか。そこに私たちの二面性が表れている。未知の未来のもつ希望と不安は私たちの心を刺激し続ける。こんなところで、現実に戻ろう。