歴史について哲学しよう

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  もし釈迦ではなくキリストがインドに生まれていたら、もし科学革命が中国で起こっていたら、もしプラトンが日本に生まれていたら、といった仮定を真面目に考えるならば、そのような仮定を置いた歴史はそれでも同じ現代を生み出していただろうか、と必ずや問うてみたくなるのではないか。決定論的な因果関係として出来事の経緯や系列を理解しようとして、このようなif then型の文を一切認めないとすれば、歴史には夢もロマンもなく、淡々とした事実の系列と化して、歴史に対する興味が失われるだけでなく、化学反応のような変化に過ぎなくなるだろう。私たちが歴史に夢をもつのは、反事実的な(counterfactual)仮定を置いてあれこれ空想してみることにあるのではないか。このような仮定を過去の事実の間に置いてみることによって、何がどのように変わるかの思考実験をしてみようというのが歴史についての哲学であり、特にこの思考実験をアイデアや思想の歴史に対して遂行してみたいというのが私の望みなのである。

 これを別な仕方で表現するなら、「AならばB」という条件法的な文について、AはBを論理的に帰結しない、Aの仮定のもとで、Bは経験的、物理的に新奇である、Aが成り立つ中で、Bは歴史的に偶然的である、といった状況を歴史の中で探ってみようというのである。このような仮定Aは出来事の歴史だけであれば荒唐無稽なのだが、観念やアイデア、思想や宗教教義の歴史となれば、状況はすっかり変わってくる。実在する世界の出来事や事実の歴史は物理学的な因果法則によって表現され、説明されるのだが、アイデアや言語表現となると、「釈迦がヨーロッパに生まれていたら、何が変わっていたのだろうか」といったことが仮定できるようになり、それだけでも、予測ができない歴史がアイデアや思想を含んだ歴史として存在できることがわかるだろう。

 私たちにわかるのは自然の出来事で、それは物理学の知識によって説明される。だが、私たちにわからないのはそれを表現する知識の本性である。その知識が真なのかどうか、なぜ真なのか、なぜ偽なのかといった疑問は知識についての疑問である。とはいえ、アイデアや知識が歴史をつくるだけでなく、それらは同時に歴史の一部でもあり、思った以上に厄介なのである。歴史にはアイデア、知識、思想と言った人間的なものがここそこに侵入しているのである。

 

 まずは、手始めに取り上げるのは『旧約聖書』。『旧約聖書』は全39巻、創世記から申命記までは「律法の書」、ヨシュア記からエステル記までは「歴史書」、ヨブ記から雅歌までは「文学、詩歌」、イザヤ書からマラキ書までは「預言書」と分けられている。「コヘレトの言葉」は、その中で「文学、詩歌」に入る。コヘレトとは討論者、または説教者の意味で、ダビデの子、ソロモン王を指す。ソロモン王は「知恵の王」で、旧約聖書の知恵文学の多くに関わっている。
 「コヘレトの言葉」のテーマは人生の目的と意味だが、そのために何を求めるべきではないかが述べられている。1章だけ以下に引用してみよう。1章全編を支配しているのが「空(くう)、空しさ」。「空しさ」(vanity)と共に根底に流れているのは「永遠」(eternity)。そして、全てが「空しさ」から「永遠」へと変えられていく。以下は1章の全文で、9は特に有名である。

1 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
2 コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
3 太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
4 一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
5 日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
9 かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。

(There is nothing new under the sun. Nihil sub sole novum. Il n'y a rien de nouveau sous le soleil. Unter der Sonne gibt es nichts Neues. No hay nada nuevo bajo el sol)
10 見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
11 昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。
12 わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。
13 天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。
14 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
15 ゆがみは直らず
欠けていれば、数えられない。
16 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
17 熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
18 知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。

 

 さて、「コヘレトの言葉」は旧約聖書の中で最も文学的、かつ哲学的な部分である。とはいえ、グノーシス的な疑問がすぐに頭を擡げてくる。世界や人生の空しさは諸行無常の世界と同根だと考えるのが常だが、全能の神がそのような空しい世界を創造したのだろうか、という疑問がまずは出てくる。そして、神が一回だけそれまでにないことをしたのだが、それがキリストの復活だと考えられている。これも不完全な世界の補填のためにキリストを復活させるというのは自らの不手際を認めていることになるという批判につながっている。キリストの復活は全能の神の天地創造が不完全だったことを告白するようなものだという訳である。

 「コヘレトの言葉」は旧約聖書の中でも特に名言が多い。文学作品として宗教、民族を超えた人間的な疑問に対する哲学的考察が試みられているが、その世界観は旧約聖書の中で異色である。旧約聖書の世界観は、神は人間に自由意志を付与し、人間が自らの意志で義を選択し、実行することを望んでいて、神は人間それぞれの行いに応じて、祝福か罰で報いるというもの。それに対して、「コヘレトの言葉」では決定論的世界観が述べられている。この世のすべては定めがあり、その定めは決して変えることはできないと述べられるが、すべてが決まっているならば、私たちの自由意志は当然否定されることになる。「コヘレトの言葉」にはこのような考えがあるにもかかわらず、一方では神を畏れ、その戒めを守るべきことを説く箇所もある。

 ここで「コヘレトの言葉」の1章9が使われている例を挙げよう。それは芥川龍之介の『侏儒の言葉』の最初の「星」である。短文なので、以下に引用しよう。


 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕(はら)んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり*

 しかし星も我我のように流転を閲すると云うことは――兎に角退屈でないことはあるまい。

正岡子規の短歌で、「数限りなくある星の中に私に向かって光っている星がある」という意味。

 

 芥川の作品にも決定論的な世界観と万物流転が混在し、空しさと好奇心のない退屈な世界がスケッチされています。まずは、これら二つの文章を通じて「太陽の下、新しいものは何ひとつない。」(There is nothing new under the sun. Nihil sub sole novum. Il n'y a rien de nouveau sous le soleil. Unter der Sonne gibt es nichts Neues. No hay nada nuevo bajo el sol.)が何を主張しているのか、色々想像してみてほしい。

 

(2)

太陽の下、新しいものは何ひとつない。There is nothing new under the sun. Nihil sub sole novum. Il n'y a rien de nouveau sous le soleil. Unter der Sonne gibt es nichts Neues. No hay nada nuevo bajo el sol.

 ギリシャ哲学や中世哲学から科学が生まれてこなかったのは、実験や観察、そして数学の利用がいずれにもなかったからだと言われている。哲学、科学、思想と呼ばれる私たちの知識システムが以前の知識システムから帰結しないことはパラダイムシフト(paradigm shift)と呼ばれ、それは文字通り新しい知識システムの登場を意味している。

 あるいは、それを知識の進化と呼んでもいいのではないか。新しい変異が遺伝子に起こり、それが集団内に定着することが生物学での進化だが、それは社会科学や科学史で革命と呼ばれてきたものと基本的に同じなのである。そして、その進化や革命は生物や人間の歴史的な変化を指すのだが、いずれも単なる因果的な変化や過程ではないのである。因果的な変化や過程はそれ以前の出来事によって決定されていて、原理的には予測が可能なものである。だが、進化や革命は予測ができないものを含んでいて、それによって進化や革命は新機軸、新奇なものを含む歴史的な断片として捉えられてきたのである。つまり、予測できないもの、新奇なものが含まれるのが進化や革命の歴史なのである。

 さて、「太陽のもとに新しいものは何もない」という表現は決定論的世界、決定論的時間変化を主張しているのか、それとも別のことを主張しているのか。これが今回の課題である。この問いは、「コヘレトの言葉」の1章9の解釈だけでなく、「コヘレトの言葉」自体の解釈、さらには聖書の解釈へと問題が広がっていくことになる。

 人間社会では何事も必然的ではなく、偶然が支配しているということになると、万物流転の信用できない社会、ニヒリズムが蔓延する不安な社会になると誰もが想像するのではないか。『平家物語』の世界は確かにそのような諸行無常の世界だった。一方、決定論的世界の現象を説明できる知識は、当然信頼できる知識である。新しいものは予測できないが、それが何もないとなれば、すべては予測可能ということになる。それは新奇なものが何もないという意味で、好奇心が湧かない退屈な世界でもある。

 このまるで異なる二つの解釈の中間には様々な状況を想定できるが、必然と偶然というまるで異なる解釈を許すのが「コヘレトの言葉」ということになる。そして、必然と偶然の狭間には様々な状況を容易に想像できる。

 このような厄介な解釈の問題は後回しにして、パラダイムシフトがどのような一般的な仕組みで起こるのか考えてみよう。どのような知識も仮定や前提のもとで成り立っている。無前提で真なる知識は経験的な世界にはない。これは宗教教義や神学の理論についても成り立つ。ここで知識と信念の違いに留意することが肝要である。「正当化された真なる信念」が知識の伝統的な定義だが、経験的に確証のある信念と言い換えてもよく、知識は単なる信念ではない。ところで、宗教教義は信念の一種であり、信仰と呼ばれる場合が多い。信者は神を知識以上の真理だと信じている。無前提の真理が教義だと信じ込まれていると同時に、信者でない人には盲信、誤った信念だと思われる場合が多い。

 実際に誰かが仮説を主張する、あるいは集団である仮説を真だと見做すことは全く自然なことで、私たちの行為の一般的なスタイルでさえある。実際、政党や組合は幾つかの仮説を信じる人たちの集まりである。何かを思い込み、推測した上で行為を実行することが人間の行為の一般的な形であり、行為とは思い込んだものの実現なのである。私たちの自由な行為が仮説設定の上での試みだとすれば、

 

仮説を置いて議論すること

仮説の置き換えによる歴史

仮説転換というパラダイムシフト

仮説の間での評価

 

といった事柄がごく当たり前のこととして受け入れることができるのではないか。間違いを説明する際の常套の方法は仮定や前提が間違っていたという説明である。人の意見を聞かずに自らの信念に従い、その結果、誤ってしまったことはよくあることである。成功や失敗は仮定や前提にした信念の成功、失敗と言ってもいいのではないか。

 自由意志による目的の設定という私たちの生き方をそのまま反映し、実行できることに注目しよう。仮説の設定とは科学の手段だけでなく、私たちの目的実現のための日常の方法なのである。その意味では自由意志による仮説設定は私たちの自然な行為の一部に過ぎない。

 人はあることを証明できるならば、自らの自由意志でそれを信じる必要はない。それを受け入れるだけでいい。それを証明できない場合こそ、信じることが不可欠になってくる。その典型例は宗教である。むろん、迷信や盲信が常に付き纏うことは注意しなければならない。神を信じることを疑わなければ、神の存在を証明する必要などないのだが…

 さて、厄介な解釈の問題に戻ろう。不十分な知識の穴埋めとして信念が実は途轍もない役割を担うのが人間の意識や社会である。知識ですべてが説明できるのであれば、それこそ退屈極まりない世界となるだろう。それが「太陽のもとに新しいものは何もない」の解釈の一つである。こうなると、神を信じることは神への好奇心を失わせることになるのだが、前提への懐疑こそ科学の母胎となってきた。懐疑からスタートするデカルトは好奇心から知識を求めたのだが、神の存在証明を試みたことは神への懐疑の裏返しと考えられなくはない。

 「コヘレトの言葉」は旧新約聖書では異色の部分。2節に「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」とある。「なんという空しさ」は口語訳聖書では「空の空」となっている。その意味は「一切何もない」と言うこと。コヘレトの言葉はこのテーマが最後まで続く。コヘレトの言葉は何もないことを強調する。目新しいものは何もなく、「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる『平家物語』がよく似た情況を描いている。諸行無常が「空の空」という訳である。空という言葉、ハベールとは、最初の人間アダムとイブの間に生まれた子供カインとアベルアベルのことで、二人はそれぞれの作ったものを神に捧げる。神は弟のアベルのささげた羊の方を良しとしたが、兄のカインはその事を嫉妬して、弟のアベルを殺害してしまう。弟のアベルが神に祝福されたがゆえに兄に殺害されてしまったその空しさが、「コヘレトの言葉」のテーマになっている。この世における空しさの極致となれば、イエスの十字架。人間は「虚無=空」の中にいるが、それでもなお希望があるというのが新約聖書の福音。このように解釈するのが普通なのだろうが、「空しさ」ではなく「決定論的世界」と捉えれば、好奇心の欠如ということになる。

 芥川の作品にも決定論的な世界観と万物流転が混在し、空しさと好奇心のない退屈な世界の両方がスケッチされている。万物流転とその限りない反復は、反復が規則的な場合と不規則的な場合に分けられる。規則的なら退屈で、好奇心が湧かない変化になるし、不規則的なら非決定論的なカオス的な変化になるだろう。

 

(3)

 プラトンは世界の創造者(デミウルゴス)が地水風火からなる自然現象をつくるという神話を『ティマイオス』で述べている。アリストテレスは質料と形相からなる存在者の間の関係を「可能的な状態が現実的な状態に変化する」と考えることによって、師であるプラトンイデア論から神話的な要素を洗い流し、かつそれをさら徹底した。そして、時が経過し、キリスト教社会はプラトンアリストテレスギリシャ哲学と出会うことになる。特に、プラトニズム(ネオ・プラトニズム)とアウグスティヌスの出会いはその後の教会の歴史を決定づけることになる。キリスト教神学はトマス・アクィナスによるプラトンアリストテレスの総合によって完成されるが、その後オッカムが分離し、中世社会での大きなパラダイムシフトとなった。

 ギリシャ哲学に対する西欧キリスト教側の態度は次の二つに大別できる。その区別は「知る」と「信じる」のいずれが重視されるかに依存している。「知る」と「信じる」の関係は大いに見直さなければならないのだが、二つが混じり合っているのが実際のところで、経験レベルの情報や知識における知と信の関係は混沌としたままである。

  ギリシャ哲学とキリスト教の関係となれば、プラトニズムが飛び抜けて大きな影響力をもっていた。というのも、プラトンの『ティマイオス』で展開されたコスモロジーは、デミウルゴスの神話の形を取り、それが旧約の「創世記」の解釈として重ね合わせられるからである。プラトンの弟子であるアリストテレスはこれを単なる神話として斥けるのだが、グノーシス主義や新プラトン主義の影響のもと、フィロンは「創世記」を解釈するためにプラトンの創造説を利用する。新プラトン主義のプロティノスの『エネアデス』では、一者から知性、魂、質料が下降的に流出し、このプロセスによって可感的な世界ができるのだと世界創造が説明される。フィロンの解釈は「創世記」と『ティマイオス』の類似性に基づくものだが、世界が永遠であるとし、神話物語を一切使わずに世界を実在論的に説明しようとするアリストテレスの著作は創世記神話の説明に向かない。それが理由で、ヨーロッパ中世はアリストテレスではなくプラトンを選ぶことから始まり、トマスに至ってアリストテレスの見直しが行われるということになるのだが、苦笑を禁じ得ないことに思えてならない。マニ教徒だったアウグスティヌスギリシャ哲学、特にプラトニズムを受容しながらも、それがキリスト教とは違うことをはっきり自覚していたのだが…

 自然神学、自然哲学から物理学へと関連をつけるにはプラトンの『ティマイオス』ではなく、アリストテレスの『形而上学』が有利になる(例えば、インペトス理論からニュートンの運動法則へのシフト)。自然世界に関する詳細な観察、記述を含むアリストテレス哲学はアラビア世界に迎えられ、12世紀にその著作のアラビア語訳、ラテン語訳が行われ、西欧のキリスト教圏に知られるようになる。だが、プラトンイデア論と違い、彼の世界永遠論、質料形相論は無からの創造に合致しなかった。神話物語と相容れないアリストテレス形而上学、自然学は合理的な自然の説明のプロトタイプであり、歴史的な物語による説明とは違っていた。聖書の教えは神話物語を中心とした教義であり、アリストテレスの哲学とは相性が悪かったのである。

 科学革命はプラトンアリストテレスの哲学の踏襲ではなく、全く異なるものをもっていた。プラトンアリストテレスのテキストの注釈を実行することが哲学であるという考えから、テキストの吟味ではなく、直接に実験、観察を行うことによって知識を得るのが科学研究であるという姿勢に変わっていく。また、自然現象を数学理論という知識を使って説明することは神話物語によって天変地異を理解するのとは大きく異なっていた。科学革命が革命であるのは次のような論理構造があるからである。

 

A(プラトン)を仮定することによって、Bが説明できない

C(アリストテレス)を仮定することによって、Bが説明できない

それゆえ、B(科学革命)はいずれの仮定からも説明できず、思いつくどのような仮定からも説明できなければ、Bは真に新しいものである。だから、Bは新奇で、偶然であり、予測不可能なものである。

 

 このようなことをグノーシス主義という仮定について考えてみよう。現代人のほとんどが聞き慣れないグノーシス主義はおよそ2,000年前の宗教的な思想運動。グノーシス主義は反宇宙的である。古代ギリシャの宇宙(コスモス)は完全な秩序を持ち、調和がとれ、理性的であり、完全な知性を持つ存在だった。また、人間も宇宙の小さな一部分、ミクロコスモスであり、宇宙を観照し、模倣することによって完全なものに近づくことができる存在だった。だが、グノーシス主義はこれを否定する。グノーシス主義によれば、宇宙に存在するものはすべて悪であって、人間の肉体もまた然りだった。ただ、人間の中の霊だけが本当の意味で神とつながる存在であるが、その霊は宇宙の牢獄、人間の肉体の牢獄に閉じ込められている。そして、この霊の解放こそがグノーシス主義の目標となる。
 グノーシス主義では神と宇宙に関する正しい知識が霊を救済するために必要だと捉えられている。そのため、グノーシス主義は宇宙の創造や構造について詳しく調べ、語ることになる。そして、グノーシス主義の神話はキリスト教の神話を独自の解釈によって書き換える。旧約によれば、宇宙は唯一の神ヤハウェが創造し、この神は全知全能。だから、現在は悲惨な状態にあっても、正しい信仰を持つものはいつか必ず救われることになる。だが、グノーシス主義の神話では、宇宙は神によって造られたことは確かだが、この神はデミウルゴス(造物主)という名で呼ばれ、実は真の神から派生した不完全なものに過ぎない。こうして、キリスト教の神話における最高神が別の存在に変えられたことによって、グノーシス主義の宇宙は異なる性格を持つことになる。無知で思い上がったデミウルゴスによって創造された宇宙は当然闇の領域であり、真の神がいる光の領域とは違っている。
 宇宙の創造者であるデミウルゴスは無知で思い上がった存在なので、グノーシス主義は真の神とデミウルゴスの違いを説明する神話をつくる。それによれば真なる神は完全に超宇宙的な存在で、宇宙が存在するよりも以前から一つの完全な世界として存在していた。ところで、この存在は人間と同じように自分の思いをもつ心霊的存在であり、あるとき自分自身から万物の初めを発出しようと考えた。そこで「原父」はその発出を彼とともにあった「沈黙」の胎内に沈めた。こうして「理性」と「真理」が生まれた。だが、「原父」の偉大さを知ることができるのはこの「理性」だけだった。このことが危機を起こし、この危機の影響を最も深刻に受けたのは、最後に生まれた「知恵」だった。そこで、「知恵」を救うために救い主であるイエスを送った。イエスは知恵を救うために彼女の中にあった情念を彼女から分離したが、情念を消し去ることはできなかった。こうして、彼女の情念である恐れ、悲しみ、困窮とそれらの背景にあった無知が、後に形作られる宇宙の物質的構成要素として存在することになった。宇宙に存在する元素はすべてこれら四つの情念から生まれた。
 その後、デミウルゴスが造られたが、彼は魂と物質的なものからだけ造られており、霊をもたなかった。グノーシス主義では、ただ霊だけが神的領域に属するため、デミウルゴスは自分よりも上位に位置する存在を知らず、自分を最高神と誤解して宇宙を創造することになった。宇宙の構成材料となった様々な物質は恐れ、悲しみ、困窮、無知から生まれたものなので、当然その宇宙は闇の世界となった。デミウルゴスは宇宙に七つの天を造るが、それはまるで牢獄の壁のようなものだった。これらの天によって人間は真の神から隔てられ、七つの天はそれぞれがアルコーンたちによって専制支配され、これには物質的側面と心理的側面がある。物質的側面は自然法則、心理的側面は旧約聖書にあるモーゼの律法である。この律法が適用されることによって、人間は奴隷化されてしまう。宇宙を牢獄として創造したデミウルゴスは、それを完成させるものとして最後に人間を創造するが、グノーシス主義では人間は肉体(物質)、魂、霊から構成される。物質と魂からできた存在であるデミウルゴスが創造したのは、人間の構成要素のうち肉体と魂だけである。霊はもともと救い主の光から誕生したので、本来的には神的領域に属するべきものである。だから、人間が造られることによって、霊は肉体と魂の中に閉じ込められることになった。
 こうして、肉体と魂の中に閉じ込められた霊は、必然的に救済されるべきものとなる。真の神は、人間の霊を救済しようという目標を持つわけではないが、本来なら神的領域にあるはずの霊を取り返すことは、神が完全なものであるためにも不可欠のものだった。救済に必要な手段はグノーシス(知識)だけ。真の神と牢獄としての宇宙についての正しい知識だけが、霊を救済できる。デミウルゴスが創造した肉体と魂は、さまざまな欲望や情念によって、霊が正しい知識に到達するのを妨害し、霊を眠っている状態にしようとする。だが、正しい知識を得ることは不可能ではない。グノーシス主義者の中には、そのために啓示があると主張する。このような啓示は、光の世界からの使者が伝えるもので、彼らは霊を取り返すためにアルコーンたちの目を逃れて、密かに宇宙に干渉している。このようにして、知識を得ることで眠りから覚めた霊は、肉体と魂から解放されて、宇宙の中を上昇し、ついに光の領域に復帰することで救済される。つまり、グノーシス主義の救済はきわめて個人的なものである。というのも、救済は一個人のレベルで起こるからである。
 しかし、グノーシス主義にも宇宙の終末は存在する。個人的レベルの救済が徐々に進むことで、地上に閉じ込められている霊の数は当然のように減ることになる。そして、いつか最後の霊が救済されるときには、宇宙は牢獄としての意味を失う。そのときこそ、宇宙が消滅するときである。霊の救済が目的とされるグノーシス主義では、キリスト教の終末論のように、それがいつ訪れるかについて語ることはないが、宇宙の終末が待たれていることは確かである。 

 これまで述べたことをまとめると、次の4項目になるだろう。

 

(1)グノーシスは知識や認識を意味するギリシヤ語。グノーシス主義は人間は知識(グノーシス)をもつことによって救済されると主張。この知識をもたらすのはキリスト。

(2)グノーシス主義は霊肉(心身)の二元論を主張。霊は善で神秘的なもの、肉(物質)は悪で堕落したもの。グノーシス主義によれば、世界を創造したのは絶対者としての神ではなく、より下級の造物者であり、物質界は悪をもち、人間も罪ある肉体をもつ。

(3)グノーシス主義は聖書の重要な教理を否定する。絶対者である唯一の神が万物の創造者であるという教理の否定、イエス・キリスト受肉した神の子であるという教理の否定、人間は恵みと信仰によって救われるという教理の否定。

(4)グノーシス主義では悪は肉体にあり、心の内面の罪の問題を扱えなかった。その教えは、禁欲的、戒律的なもので、霊の神秘性を強調した。

 

 このようなグノーシス主義が正しいという仮定のもとで、科学的知識はどのように生まれ、変遷することになるのか、思考実験をしてみるのも興味深く、正に好奇心が疼くのである。