私が生きる世界(8)

 10 「決める」と「決まる」

 因果的な決定性は表現される内容の決定性のことであり、物理的な自然法則、例えば運動法則にしたがって物理系の状態が決まっていくように、物事が「決まる」ような仕方で見つけることができる。非因果的な決定性は表象の形式に関連しており、論理法則、文法法則として、何かを「決める」ような仕方で考えられ、使われてきた。メタ論理的な不完全性や計算不可能性は「決める」ことができない性質を表すために使われてきた。決定論あるいは非決定論はこの二つの側面を反映して、何かを決める(認識的な)決定論と何かが決まる(存在的な)決定論に分かれている。20世紀はいずれの側面でも非決定論が注目を浴び、多くの研究がなされてきた。

 古典的な世界観の特徴の一つは「決まる」ような仕方の決定論にある。その典型がラプラスの魔物である。初期状態が完全に決まれば、その後の世界の状態は計算によって完璧に予測可能である、というのが魔物の主張である。だが、この普遍的決定論は別の古典力学的な結果によって否定される。因果的に相互作用する対象が3個以上あれば、それだけで予測は不完全であるという3体問題からも、決定論的に物理世界のあらゆる変化が予測できる訳ではないことは明らかである。と同時に、「決まる」と「決める」の複雑な組み合わせによって、それが決定論や非決定論に深く結びついていることに注意すべきである。「決める」、「決まる」の単純な区別ではなく、二つが微妙に組み合わされているところに生活世界での決定、非決定の源がある。決定性と非決定性のモザイク状の組み合わせが古典的世界観にも生活世界にも存在している。

 

11 因果性、時間、時制(Causality, Time, and Tense)

 運動変化が因果的で、連続していることを疑う人はまずいない。変化の因果性、変化の時間的な連続性、それらはいずれも物理的なものが変化を本性とし、その変化は因果的なものだということであり、それが時制という言語レベルの工夫によって表現されてきた。

 時間を言葉で表現しようとすれば時制を使うのが私たちである。時制は実に便利な時間表現である。時間的な変化は因果的な変化であり、その変化を私たちは時制によって巧みに表現し、その積み重ねとして歴史概念を手に入れ、歴史に馴染んできた。物理理論は因果性を必要とせず、因果性は昔の形而上学的な素朴概念に過ぎないと考える人でも、時間の存在を疑う人はまずいない。無時間の世界で生きることを想像できるだろうか。「生きる」こと自体が時間的で、それゆえ、因果的である。時制によって過去、現在、未来の違いが明瞭に意識され、歴史概念が私たちに植えつけられることになる。時制は、確かに物理的な時間ではないが、時制によって表現したい時間は物理的なものである。

 誰の生きる世界にも時間があり、それゆえ、因果的な変化を経験し、時制を駆使することによってその経験を表現することができる。

 

12 歴史、系統、由来、進化

 生きることがない生活世界など存在しない。生存のない生活世界とは形容矛盾そのものである。生きることと死ぬことが生命現象の基本的な要素であり、世代交代の繰り返しが系統、由来を生み出し、進化を形成してきた。進化は典型的な歴史的変化、因果的変化である。私の生きる世界が因果的で、それゆえ、歴史的であると私が強く感じるのは、私自身が生きているからだと私は思っている。長い進化の結果として、私はそれを感じるようにまで適応したのかも知れない。親子、兄弟、家族について感じる肉親の感情は(系統的に)生きることに寄与する適応である。喜び、悲しみ、怒り、等々の感情も長い進化の結果として、生活世界に適応したものである。生活世界は変化すると述べたが、生活世界の進化を認めるならば、生活世界とはそれ自体が適応であり、文化進化の一形態である。

 自らの身分、境遇等がそこで確認され、自分は何かが確定されるのが生活世界である。自分を知るとは自分の属する生活世界を知ることである。

 

13 個別的な、唯一の私と私の世界

 私はこの世界でただ一人の私であり、私の親や兄弟もかけがえのない特別の存在だと思っている。私が住む世界には唯一無二の存在が沢山あり、それゆえ、普遍的なものしかない物理世界とは根本的に違うというのが私たちが共通にもつ強い直観である。だが、普遍的存在からなる世界と唯一なものに溢れる世界とは十分に両立する世界なのである。見かけは違っていても本質的に違いがない点に普遍性と唯一性の関係がある。私が所蔵する、この本は世界に一冊しかないが、その同じ内容の本は世界中に5万冊以上存在する、という言明におかしな点は何もない。

 私のもの、唯一のもの、大切なもの、といった表現は一見すると特別な存在論を要求するように見える。だが、私の時計は昨日までショーウィンドーに陳列されていた、大量生産の時計の一つに過ぎない。普遍的なものが唯一のもの、個別のものに、そしてその逆に変化するのが生活世界の特徴であり、これは物理学が描く世界にはない特徴である。

 

14 死ぬこと

 死の経験はあるかと問われて「ない」と答えたくなるのは私だけだろうか。死の経験はできないと答える姿勢には、「死」と「経験」という二つの概念がもつ独特の意味が暗示されているのかも知れない。冷静に考えれば、私は死の経験を何度もしている。これまでに多くの人の死を経験してきた。その中には自分の肉親も、何人もの友人も含まれている。むろん、私自身が死ぬという経験は夢でもまだない。他人の死と自分の死を区別して考えがちなのは、自分が唯一の存在で、その死も多くの他人の死とは異なると考える習慣からなのだろうか。自分の死を特別なものと考えるのは、死によって考えることができなくなるためだけだろうか。

 死を経験し、死への恐怖をもち、死を恐れることは、生活世界に不可欠の事柄であり、死がある故に生活世界は誰にとっても緊張と魅力を併せもった生の世界となっている。生活世界とは実は死に満ちた生の世界なのである。自分の死と他人の死がいつでもどこでも起こりうる世界なのである。

 

誕生日 余命告げられ 祝いけり

余命なき それでも祝う 誕生日

祝いけり 僅かな余命 誕生日

 

朝が明け 余命わずかの 陽の光

 

(再録)

 もし釈迦のように解脱できるなら、死は何ら恐れる必要のないものになるのではないか。私たちの煩悩の一つは死への恐れとおののきだろうが、それを消し去るには何が必要なのだろうか。悟りに到達できない私たちは、怪我の痛みの極みが死の痛みであり、それが死の恐怖につながっている、と考えるのではないか。となれば、痛みや苦痛のない死は私たちの死に対する気持ちや態度とは随分と異なったものになるに違いないと考えることになるだろう。

 病気や死が苦痛を伴わないものであれば、私たちの死や病気に対する態度は随分と変わってくる。それを理解するために植物を思い浮かべてみよう。植物には苦痛がない。少なくとも私たちはそう思ってきた。だから、樹木を伐採する際、イヌやネコを殺す場合とは違って、相手の苦痛を軽減することなど考えもしない。

 この植物の場合から、感覚遮断による死の恐怖の消滅を私たちはまず考えるのではないか。何も感じなければ、恐れる必要がなくなる。これは実にわかりやすい。だが、それで安心できないというのが私たちの実感ではないだろうか。安心できない理由は死による存在の消失への恐怖である。感覚以外の恐怖はなくなっても、それでも残る恐怖は自分がいなくなる、つまり、自分が死ぬことによる非在である。死が存在するとは、私たちが必ず死ぬということである。

 自分が存在しなくなっても、自分の記憶が他の人に残り、それが消えずに固定され続けるならば、非在への恐怖も軽減されるのではないだろうか。だが、自分の記憶が他者にどのような仕方でいつまで残るかは雲をつかむような話で、現在はしっかりした議論ができる段階ではない。

 自己の欲望が本能を越えてしまうことが人にはしばしば起こる。生物学的に死が不可避のものなら、本能に死を避けることが入っているは自己矛盾のようにみえる。だが、死が恐怖であることが本能の一つに組み込まれている。生きるための手立ての一つが死を避けることであり、死を回避する一つの手立ては死への恐怖を本能化することである。つまり、生きるとは死を恐れることであり、生き残るためには死に対する恐れを常に持ち、その恐れを使って生き残るのが私たちの本能である。

 「恐れる、怖がる」は私たちの感情の一つであり、それを感じることが感覚と同じようになければ、死は恐ろしいものではなくなるだろう。さらに、死の意識、漠然とした恐れ、存在への不安などが続く。こうして、感覚、感情、意識のそれぞれがないものは恐れや不安がないか、少ないものということになる。

 生きるために恐れる、恐れがなければ死は容易に受け入れることができる、生きるために恐れ、恐れがあれば死の回避につながる、それゆえ、生きるために死を回避するということになり、死が怖いのは生きるためには当たり前ということになる。

 何とも単純で、馬鹿らしい結論だが、単純なだけに説得力を持っている。