私が生きる世界(4)

6 幾何学の大いなる野望:点

 ユークリッド幾何学の野望は「点」に秘められ、「点」に込められている。[1]大袈裟に言えば、点がその後の私たちの生活世界を運命づける最も重要な鍵を握っていたのである。点を使って世界の様々なものを表示することができる故に、自然を数学的に表現できるのであり、それが幾何学のもつ威力なのである。虚空でさえ、点を使ってその場所やサイズを表現できる。サイズのない点が一様に存在している幾何学的な空間を想定することによって、それをモデルにして世界の中の対象とその変化を線や面を使って表現できる。さらに、座標系の導入によって、対象の運動変化を関数を使って的確に描くことができるようになった。

 

6.1ユークリッド幾何学の企み:点の意義

 ユークリッド幾何学には二つ重要な事柄がある。一つは定義の最初に登場する「点」であり、もう一つは公準の最後に控える「平行線の公準」である。点に満ちた世界がその後の数学研究と自然研究のすべてを支配することになるなどと誰が想像できたろうか。虚空でさえそれを表示する数学的な点に満ちている。点の次元は0であり、それゆえ、点は場所もサイズももたない。点は素粒子や原子とは根本的に違っている。

 点は無定義語の「部分」を使って、部分のないものとして定義される。それは点が大きさをもたないことと同じである。そして、その点を使って線が定義され、線から面が、さらに図形の定義に至ることになっている。幾何学的な対象を構成する出発点が点であり、それは原子論の原子とは違って、部分がない、サイズがないものであり、したがって、物理世界には存在できないものである。

 

6.2解析幾何学:言語としての数学

 幾何学が物理世界を描く言語として使われるのは解析幾何学の成果そのものである。自然の数学化は自然の幾何学化で始まり、それは幾何学の解析化によって古典力学として達成された。解析幾何学デカルトの『幾何学』に始まり、表象装置としての幾何学の特徴をもつものだった。点や線、図形は数によって表現され、量が数で表現されることは代数的な計算が「数が何を指しているか」を考えることなく、自由にできることになった。[2]

 

[1] 点のない幾何学が非決定論的な世界では必要となる場合が多い。逆に古典的な決定論的世界では点の遍在が不可欠である。後述参照。

[2] これもデカルトの大きな業績である。面積と体積の掛け算が無意味と考えるのではなく、面積を表す数と体積を表す数は掛け算ができると考えたのがデカルトだった。

 

(問題)点から線をつくることができますか。また、線を分割していくと、最後は点になりますか。

 

  中学生から老人にまで等しく問うことのできる、簡単でありながら、実は深遠な哲学的問題の極めつけは誰が何と言おうとこの問題。この問題はユークリッド幾何学を知っている人には馴染の問題かも知れないのですが、ユークリッド幾何学のエッセンスを見事に突いたもので、幾何学の本性に深く関わっている問題なのです。学校が休みになった中高生の皆さんにはこの問題を自ら考え、自分なりの解答をまず考えていただきたい。二者択一の問いなので、理由がはっきりしなくてもどちらなのかは解答できるでしょう。
 この問題自体は目新しいものではありませんし、参考文献を参照しなければわからないといった問題でもありません。にもかかわらず、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまうのです。

[解答1]
 点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。
[解答2]
 区間[0,1]が0と1の間にある個々の点からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

*[解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるでしょう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっています。
**小言幸兵衛の立場からは0 + 0 +…+ 0 +…= 0という式は意味をもっていません。というのも、左辺は無限の0を加えているのでしょうが、代数的な演算である加法は有限の項を加えることしかできません。無限の項を加えようとすれば、極限(limit)概念を使わなければなりません。

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが常識的な考えとして認められている解答なのか迷い始めます。二つの正反対の解答を見て、常識が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるでしょう。さらに、今の常識より古い常識がまだ残っているからだ、あるいは新しい考え方が侵入したからだと想像する人さえいるでしょう。いずれにしろ、現在の正解は[解答2]です。

 我が家と隣家の間には境界線が存在し、その境界線で土地がはっきり分けられています。では、その境界線を目で見て確かめることができるかと尋ねられると、実はそんな芸当は誰にもできません。なぜなら、境界線には幅も太さもなく、この世界に実在しないからです。一方、物理的な境界線を認め、境界線に幅や太さがあったとすると、我が家と隣家を分けるために幅のある境界線のどこを隣家との仕切りにすればよいのかという問題が出てきてしまいます。これは物理的な境界線は法律上は役に立たない境界線ということを意味しています。
 さて、この哲学的問題は根本的な事柄を贅沢に盛り込んでいます。そして、単純でもバカにできない射程をもっているのです。「点」が数学的概念だと言われるとき、「数学的」とはどのような意味で、「物理的」とはどう異なるのかを明らかにするには格好の問題なのです。「点には大きさがない」とは禅問答と同じような、あるいはそれ以上の不可解な意味をもっています。サイズのない対象が存在するなどということは、この世ではあってはならないこと。でも、あの世なら可能かもしれないと考える向きには、数学的世界こそあの世の例で、しかも大変わかりやすいあの世なのです。
 かつて私たちは教室で円、三角形、台形などをノートに描きました。ノートの図形とユークリッド幾何学が定義する図形は同じ三角形だと思い込んでいたにもかかわらず、本当はまるで違っています。ノートの三角形は物理的対象で、太さのある線で不正確に描かれていて、ユークリッドが定義した三角形とは似ても似つかぬ対象です。にもかかわらず、私たちはその「三角形擬き」の助けを借りて証明問題を何の支障もなく解くのです。
 私たちの知識の最も根本的な謎は「点、線、面、そして図形」の存在論。このような謎の対象は幾何学に限られた訳ではありません。「数」も同じように謎の対象。物理世界のどこにも実在しないのですが、数がなくては何もわからず、何もできないのが物理世界なのです。
 こんな謎に直接挑戦した小説は皆無。文学的な想像力が無力であると感じる領域は幾何学、そして物理学。でも、教養ある豊かな想像力のために必要なのが幾何学、そして物理学。