植物名の特定(identifying the names of plants)

 私たちの周りにあるものの名前、そして植物名はその一例だが、それを特定することは命名することとも、そのものを観察し、調べることとも違っている。ものを知ることとそのものの名前を知ることの間には大した違いがないのか、それとも途方もない違いがあるのか、そしてそんな違いはものに依存して変わる話に過ぎないのか、こんな疑問が湧き出してくる。科学者はものの名前ではなく、そのもののもつ性質や特徴に関心をもつ。彼にとって名前はそのものを指示するだけのマークに過ぎず、誰が何時命名したかは特段重要ではない。だが、これが文学作品という文化的なものになると、話はすっかり変わり、作品のタイトルはとても重要で、文学的センスさえ問われかねないことになる。私たち一人一人の名前も似たようなもので、親たちが懸命に子供の名前をつけることになる。

 さて、植物名を特定する作業は科学的なのか、それとも哲学的なのか。この問いには説明が必要である。「科学的」とは特定作業が科学活動の一つで、その活動は観察や実験、理論構築や説明をすることである。一方、「哲学的」とは注釈活動の一つで、図鑑の中の記載から名前を特定することであり、必要ならその図鑑記載に新たな知見を加えることである。これはギリシャ哲学や中世哲学、さらには近代哲学でも行われてきた哲学の研究手段の一つである。ここにあるのは、対象の観察や実験と、テキストの講読と注釈という違いである。

 私はfacebookで周りの植物の画像から、それが何かを調べ、気づいたことを記しているので、ここで自分が撮った「画像」からの植物名の特定に話を限ってみよう。画像からそれが何という名前のものかを特定することは科学作業なのか、注釈作業なのかという問いがスタートとなる。当然、どのような文脈においてその問いを考えるかに応じていずれの解答も可能である。新型のコロナウイルスであれば、その名前を命名する、既存のウイルスならその名前を特定することが感染防止や治療の前に不可欠となる。これは立派な科学作業、科学活動と言ってよいだろう。だが、私がfacebookの記事を書くために植物名を特定することは注釈作業であり、特定の植物についての注釈であり、植物図鑑の特定の記載を注釈するような活動である。むろん、時には名前の特定を通じて、科学的な疑問をもつことはあるが、それは稀なことである。

 画像から思想に変えて名前の特定を考えてみよう。バラの研究とバラの名前の研究は異なる。その違いは、前者が科学研究、後者が歴史研究というのがほとんどの場合である。それが思想となると、科学研究はできなく、歴史研究はできるが、それでは不十分で、誰もが注釈に活路を見出すことになる。文学史と文学論の区別をつけない形での古典研究は作品の注釈を通じての考察になる。ギリシャ哲学の歴史を語りながら、各哲学の注釈を行ったのがアリストテレスだった。

 実験観察と注釈特定という区別によって科学と哲学を分けるのは満更でもないアイデアなのだが、区別の強調ばかりされてきたのがこれまでのことで、二つの区別の間に共有されている基本的な事柄を無視することはできない。情報とその活用の素地がこの共通の領域にある。これはじっくり考える必要がある。