異端のグノーシス主義は妖しい魅力をもつ

 神は全知全能なので、彼に対して隠し事は通用しない。彼は私のすべてを知っていて、神の前では私のプライバシィーなど存在しない。ところが、私は神のほとんどを知らない。だが、「それゆえ、誰もが知らない神だけの秘め事が存在する」などとは考えもしない。神は何も隠しておらず、私が知らないだけだと、勝手に合点しているのである。
 では、本当に神に隠し事はないのだろうか。神は隠す必要がないゆえに、何も隠さない、というのがもっともらしい理由。では、私たちはどうして隠すのか。私たちは知ることに常に執着し、知りたいという気持ちを強く持っている。それは同時に、知られたくないという気持ちと対になっている。そのような葛藤こそが人の心の特徴の一つで、そのような葛藤は神にはない。だから、神は隠す必要がない。
 「知らない、知ることができない」ことが確かに私たちにはある。それは私たちの大きな心理的コンプレックスになっている。だから、知りたいという欲求が生まれる。「知らないから知りたい」のであり、「知りたい」ことは「知らない」ことの裏返しなのである。なんでも知ることができるなら、知りたいという欲求は必要なく、それゆえ、そんな欲求は生まれる筈がない。だから、全知の神は知りたいという欲求はもたないことになる。当然ながら、神は知られたくないという欲求ももたない。他の欲求についても同じで、神は欲求をもたなくてもそれが自動的に満たされるのである。ということは、神は私とは違って、私の欲求を知っているが、私の欲求をもてないことになる。つまり、神は全知であっても、全能ではない。
 この結論は神が全知全能であることに反する。全知と全能が異なることは神を引き合いに出さなくても私たち自身を考えるだけでも十分わかる。知ることと行為することは違っていて、知識、欲求、実践は別物というのが長い歴史の中で正しい知恵として認められてきた。つまり、私たちにとっては全知と全能は最初から異なるものだったのである。
 このように見てくると、私たちの全知全能と神の全知全能は随分と違う。二つは同床異夢の全知全能なのである。私たちの全知全能観によれば、私たちは秘密をもてるが、神は秘密をもてないのである。繰り返しになるが、神は私たちに対して悪事を働くことができず、嘘もつけず、従って全能ではないのである。

 こんな話より強烈なのは、全知全能の神が生み出した私たちが住むこの地上には悪がはびこっていることである。全知全能の神がこんな駄作、失敗作の世界を創造する筈がないと誰もが思うのだが、実際の世界は悪だらけ。どうしてこのようなことになっているのか。

 グノーシス(gnosis)とは「知識・認識」を意味するギリシャ語。グノーシス神話は善と悪の二元論を特徴とし、自己の本質の認識(グノーシス)によって人間の霊性の解放を目指すのが神への信仰である。アウグスティヌスが若い頃に傾倒したマニ教の教義はこのグノーシス主義。全知全能の神が世界を創造したとなれば、私たちの世界にある諸々の悪の存在をどう説明するのか。グノーシスは世界の堕落と腐敗を事実そのものと認め、次のようなシナリオを考える。至高神は創造神(デミウルゴス)を創造し、この創造神が世界を創造するのだが、失敗してしまう。失敗の理由は、デミウルゴスが全知全能ではないから。そのため、彼の失敗作の世界は不完全さと悪に満ちている。そして、人間もこの堕落した世界で自己の本質を見失って生きている。

 現代人のほとんどが聞き慣れないグノーシス主義はおよそ2,000年前の宗教的な思想運動。古代ギリシャの宇宙(コスモス)は完全な秩序を持ち、調和がとれ、理性的であり、完全な知性を持つものだった。人間は宇宙の小さな一部分、ミクロコスモスであり、宇宙を観照し、模倣することによって完全なものに近づくことができる存在だった。だが、グノーシス主義はこれを否定する。グノーシス主義によれば、宇宙に存在するものはすべて悪であって、人間の肉体も悪そのもの。人間の中の霊だけが本当の意味で神とつながる存在なのだが、その霊は宇宙の牢獄、人間の肉体の牢獄に閉じ込められている。そして、この霊の解放こそがグノーシス主義の目標となる。
 グノーシス主義では神と宇宙に関する正しい知識を得ること、そして、それが霊を救済するために必要だと捉えられている。このため、グノーシス主義は宇宙の創造や構造について詳しく考察し、キリスト教の神話を独自の解釈によって書き換える。旧約聖書によれば、宇宙は唯一の神ヤハウェが創造し、この神は全知全能。だから、現在は悲惨な状態にあっても、正しい信仰を持つものはいつか必ず救われるとする。だが、グノーシス主義の神話は異なる。真なる神は完全に超宇宙的な存在で、宇宙が存在する以前から一つの完全な世界として存在していた。この存在は人間と同じように自分の思いをもつ心霊的存在であり、あるとき自分自身から万物の初めを発出しようと考えた。そこでこの存在はその発出を彼とともにあった「沈黙」の胎内に沈めた。こうして「理性」と「真理」が生まれた。だが、この存在の偉大さを知ることができるのはこの「理性」だけだったため、最後に生まれた「知恵」は深刻な危機に陥る。そこで、「知恵」を救うために救い主であるイエスが送られる。イエスは知恵を救うために彼女の中にあった情念を彼女から切り離すが、情念を消し去ることはできなかった。こうして、彼女の情念である恐れ、悲しみ、困窮とそれらの背景にあった無知の四つが、後に形作られる宇宙の物質的構成要素となった。
 その後、魂と物質からデミウルゴスが造られたが、彼は霊をもたなかった。グノーシス主義では、ただ霊だけが神的領域に属するため、デミウルゴスは自分よりも上位に位置する存在を知らず、自分を最高神と誤解して宇宙を創造することになった。宇宙の構成材料となった様々な物質は恐れ、悲しみ、困窮、無知から生まれたものなので、当然その宇宙は闇の世界となった。宇宙を牢獄として創造したデミウルゴスは、それを完成させるものとして最後に人間を創造する。グノーシス主義では人間は肉体(物質)、魂、霊から構成される。物質と魂からできた存在であるデミウルゴスが創造したのは、人間の構成要素のうち肉体と魂だけ。霊はもともと救い主の光から誕生したので、本来的には神的領域に属するべきものだが、人間が造られることによって、霊は肉体と魂の中に幽閉されることになった。
 こうして、肉体と魂の中に閉じ込められた霊は、救済されるべきものとなる。救済に必要な手段はグノーシス(知識)だけ。真の神と牢獄としての宇宙についての正しい知識だけが、霊を救済できる。デミウルゴスが創造した肉体と魂は、欲望や情念を巧みに使って、霊が正しい知識に到達するのを妨害し、霊を眠らせようとする。だが、正しい知識を得ることは可能。知識を得ることによって眠りから覚めた霊は、肉体と魂から解放されて、宇宙の中を上昇し、ついに光の領域に復帰し、救済される。
 グノーシス神話に共通するのは、人間の知力では把握できない至高神と現実の物質的世界との間には超え難い断絶が生じているという認識であり、人間の「霊」あるいは真の自己は元来その至高神と同質である。だが、その自己はこの世界に捕縛されている。その解放のためには、至高神が光の国から派遣する啓示者、あるいはそれに機能的に等しい呼びかけが到来し、人間の「自己」を覚醒しなければならない。そして、物質的世界が終末を迎えるときには、その中に分散している本質は至高神の領域へ回帰してゆく。

 

 グノーシス善悪二元論のメリットは悪を積極的に肯定し、悪の解剖学を構築できることである。とはいえ、旧約の神話もグノーシスの神話も、不合理な部分を不可避的にもつ物語に過ぎず、いずれの不合理が優れているかなどナンセンスな問いに過ぎないというのが冷静な判断。