言葉の常識:常識的な言葉

 言語についての常識は何か。それは常識を表現することである。これがタイトルで言いたいこと。時間についてのうがった警句はたくさんあり、落語の落ち(さげ)や洒落のように使われる場合が多い。引用される警句の幾つかを挙げてみよう。

 

Time is nature's way of keeping everything from happening at once.

Woody Allen

 

Time is what prevents everything from happening at once.

-A. Einstein

-J.A. Wheeler

-R. Cummings

 

Time is a device to stop everything from happening at once...space is a device to stop everything from happening in Cambridge.

  1. Kumor

 

 上記の引用では時間も空間も同じアイデアで表現されている。だが、誰が最初に言ったかとなると判然としない。また、「everything from happening at once」、「everything from happening in Cambridge」という表現が正確に何を意味しているか考えてみればみるほど、何が主張されているかわからなくなる呪文のようなもの。「いつすべてが起こるのか、起こるすべてとは何か、ケンブリッジのどこで起こるのか」等々、疑問が謎をよび、謎が疑問を生み出すだけで、それが警句の宿命。

 

 自然言語はこのような警句に特徴がある。だから、文学的な表現に優れ、それが私たちの心を惹きつけてきた。だが、数理物理学者の多くは「自然言語でどれほど緻密に自然現象を表現しても、所詮それは警句に過ぎない」と思っている筈である。彼らの研究の相当部分がそれまでにない事柄の新たな表現にあった。私は物理学者ではないので、自然言語にはもっと寛容で、自然言語はそれなりの表現力をもっていると思っている。文学的な表現が私たちを惹きつけるのは表現の正確さではなく、表現のもつ人間的な力で、そのため文学は人間に対して強力な影響力をもっている。

 自然言語による研究の代表は何といってもアリストテレス。彼の論理学は自然言語を形式化したもので、それゆえに部分的でしかなかった。彼の自然についての研究など今では科学的には間違いだらけ。人間の経験を表現するのに特化した自然言語は、人間的でない世界には適していない。文学が人間の経験を表現するのに適しているなら、文学は自然世界を表現するのに適していないことになる。自然にも人間にも両方に完璧に対応できるなどと言うのは簡単に信じるべきではない。だから、人間の経験を超えた世界を分別のある文学は対象にしない、よほど素晴らしいSFでない限りは。

 引用句を使えば、時間と空間を超えた知覚はできず、知覚はいつ、どこでという物理的な出来事の一種なのである。過去のもの、未来のもの、小さいもの、遠くのものは知覚できない。それゆえ、知覚は徹底して物理的な出来事なのである。知覚を基礎にした経験とその表現は知覚の時空間の仕組みをそのまま遺伝している、と。

 

 言語は自然だろうと人工だろうと、離散的。その離散的な記号システムを使って連続的な対象をどのように表現するか、これが言語の担い手の腕の見せどころ。離散的な言語をどのように使えば、連続的な変化が表現できるというのか。「連続的に変化する」と述べても、それは連続的な変化を描いたのでも、述べたのでもなく、報告したに過ぎない。言葉で内容を述べるとは、自然言語では単に連続的に表現するだけ、「現象的連続性」と宣言するだけで、何も判然としない。「連続」の表現はできず、連続的な現象を描写するくらいしかできない。人によって「連続性」の表現は異なる。表現は自由であるし、文体を主張するなら、そこに生まれるのは「表現の恣意性」。だが、数学を使っての連続性の表現は普遍的で、人によって表現の内容が異なることはない。つまり、表現は一意的なのである。

 

 公共的で客観的な知識であるためには、表現の自由は時に極めて不都合なことになる。知識を生み出すには民主的で、自由であることが必要。だが、知識が見出され、確立されると、その管理は民主的ではなくなる。そして、「知識を信じるときは専制的に、知識を疑うときには民主的に」という警句が生まれる。