歴史について哲学する(2)

太陽の下、新しいものは何ひとつない。There is nothing new under the sun. Nihil sub sole novum. Il n'y a rien de nouveau sous le soleil. Unter der Sonne gibt es nichts Neues. No hay nada nuevo bajo el sol.

 ギリシャ哲学や中世哲学から科学が生まれてこなかったのは、実験や観察、そして数学の利用がいずれにもなかったからだと言われている。哲学、科学、思想と呼ばれる私たちの知識システムが以前の知識システムから帰結しないことはパラダイムシフトと呼ばれ、それは文字通り新しい知識システムの登場ということを意味している。

 あるいは、それを知識の進化と呼んでもいいのではないか。新しい変異が遺伝子に起こり、それが集団内に定着することが生物学での進化だが、それは社会科学や科学史で革命と呼ばれてきたものと基本的に同じなのである。そして、その進化や革命は生物や人間の歴史的な変化を指すのだが、いずれも単なる因果的な変化や過程ではないのである。因果的な変化や過程はそれ以前の出来事によって決定されていて、原理的には予測が可能なものである。だが、進化や革命は予測ができないものを含んでいて、それによって進化や革命は新機軸、新奇なものを含む歴史的な断片として捉えられてきたのである。つまり、予測できないもの、新奇なものが含まれるのが進化や革命の歴史なのである。

 さて、第1回に登場した「太陽のもとに新しいものは何もない」という表現は決定論的世界、決定論的時間変化を主張しているのか、それとも別のことを主張しているのか。これが今回の課題である。この問いは、「コヘレトの言葉」の1章9の解釈だけでなく、「コヘレトの言葉」自体の解釈、さらには聖書の解釈へと問題が広がっていくことになる。

 人間社会では何事も必然的ではなく、偶然が支配しているということになると、万物流転の信用できない社会、ニヒリズムが蔓延する不安な社会となると誰もが想像するのではないか。『平家物語』の世界は確かにそのような諸行無常の世界だった。一方、決定論的世界の現象を説明できる知識は、当然信頼できる知識である。新しいものは予測できないが、それが何もないとなれば、すべては予測可能ということになる。それは新奇なものが何もないという意味で、好奇心が湧かない退屈な世界でもある。

 このまるで異なる二つの解釈の中間には様々な状況を想定できるが、必然と偶然というまるで異なる解釈を許すのが「コヘレトの言葉」ということになる。そして、必然と偶然の狭間には様々な状況を容易に想像できる。

 このような厄介な解釈の問題は後回しにして、パラダイムシフトがどのような一般的な仕組みで起こるのか考えてみよう。どのような知識も仮定や前提のもとで成り立っている。無前提で真なる知識は経験的な世界にはない。これは宗教教義や神学の理論についても成り立つ。ここで知識と信念の違いに留意することが肝要である。「正当化された真なる信念」が知識の伝統的な定義だが、経験的に確証のある信念と言い換えてもよく、知識は単なる信念ではない。ところで、宗教教義は信念の一種であり、信仰と呼ばれる場合が多い。信者は神を知識以上の真理だと信じている。無前提の真理が教義だと信じ込まれていると同時に、信者でない人には盲信、誤った信念だと思われる場合が多い。

 実際に誰かが仮説を主張する、あるいは集団である仮説を真だと見做すことは全く自然なことで、私たちの行為の一般的なスタイルでさえある。実際、政党や組合は幾つかの仮説を信じる人たちの集まりである。何かを思い込み、推測した上で行為を実行することが人の行為の一般的な形であり、行為とは思い込んだものの実現なのである。私たちの自由な行為が仮説設定の上での試みだとすれば、

 

仮説を置いて議論すること

仮説の置き換えによる歴史

仮説転換というパラダイムシフト

仮説の間での評価

 

といった事柄がごく当たり前のこととして受け入れることができるのではないか。間違いを説明する際の常套の方法は仮定や前提が間違っていたという説明である。人の意見を聞かずに自らの信念に従い、その結果、誤ってしまったことはよくあることである。成功や失敗は仮定や前提にした信念の成功、失敗と言ってもいいのではないか。

 自由意志による目的の設定という私たちの生き方をそのまま反映し、実行できることに注目しよう。仮説の設定とは科学の手段だけでなく、私たちの目的実現のための日常の方法なのである。その意味では自由意志による仮説設定は私たちの自然な行為の一部に過ぎない。

 人はあることを証明できるならば、自らの自由意志でそれを信じる必要はない。それを受け入れるだけでいい。それを証明できない場合こそ、信じることが不可欠になってくる。その典型例は宗教である。むろん、迷信や盲信が常に付き纏うことは注意しなければならない。神を信じることを疑わなければ、神の存在を証明する必要などないのだが…

 さて、厄介な解釈の問題に戻ろう。不十分な知識の穴埋めとして信念が実は途轍もない役割を担うのが人間の意識や社会である。知識ですべてが説明できるのであれば、それこそ退屈極まりない世界となるだろう。それが「太陽のもとに新しいものは何もない」の解釈の一つである。こうなると、神を信じることは神への好奇心を失わせることになるのだが、前提への懐疑こそ科学の母胎となってきた。懐疑からスタートするデカルトは好奇心から知識を求めたのだが、神の存在証明を試みたことは神への懐疑の裏返しと考えられなくはない。

 昨日の「コヘレトの言葉」は旧新約聖書では異色の部分。2節に「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」とある。「なんという空しさ」は口語訳聖書では「空の空」となっている。その意味は「一切は何もない」と言うこと。コヘレトの言葉はこのテーマが最後まで続く。コヘレトの言葉は何もないということを強調する。目新しいものは何もなく、「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる『平家物語』がよく似た情況を描いている。諸行無常が「空の空」という訳である。空という言葉、ハベールとは、最初の人間アダムとイブの間に生まれた子供カインとアベルアベルのことで、二人はそれぞれの作ったものを神に捧げる。神は弟のアベルのささげた羊の方を良しとしたが、兄のカインはその事を嫉妬して、弟のアベルを殺害してしまう。弟のアベルが神に祝福されたがゆえに兄に殺害されてしまったその空しさが、「コヘレトの言葉」のテーマになっている。この世における空しさの極致となれば、イエスの十字架。人間は虚無=空の中にいるが、なお希望があるというのが新約聖書の福音。このように解釈するのが普通だろうが、「空しさ」ではなく「決定論的世界」と捉えれば、好奇心の欠如ということになる。

 芥川の作品にも決定論的な世界観と万物流転が混在し、空しさと好奇心のない退屈な世界の両方がスケッチされている。万物流転とその限りない反復は、反復が規則的な場合と不規則的な場合に分けられる。規則的なら退屈で、好奇心が湧かない変化になるし、不規則的なら非決定論的なカオス的な変化になるだろう。