歴史について哲学する(1)

 もし釈迦ではなくキリストがインドに生まれていたら、もし科学革命が中国で起こっていたら、もしプラトンが日本に生まれていたら、といった仮定を真面目に考えるならば、そのような仮定を置いた歴史はそれでも同じ現代を生み出していただろうか、と必ずや問うてみたくなるのではないか。決定論的な因果関係として出来事の経緯や系列を理解しようとして、このようなif then型の文を一切認めないとすれば、歴史には夢もロマンもなく、淡々とした事実の系列と化して、歴史に対する興味が失われるだけでなく、単なる変化に過ぎなくなるだろう。私たちが歴史に夢をもつのは、反事実的な仮定を置いてあれこれ空想してみることにあるのではないか。このような仮定を過去の事実の間に置いてみることによって、何がどのように変わるかの思考実験をしてみようというのが歴史についての哲学であり、特にこの思考実験をアイデアや思想の歴史に対して遂行してみたいというのが私の望みなのである。

 これを別な仕方で表現するなら、「AならばB」という条件法的な文について、AはBを論理的に帰結しない、Aの仮定のもとで、Bは経験的、物理的に新奇である、Aが成り立つ中で、Bは歴史的に偶然的である、といった状況を歴史の中で探ってみようというのである。このような仮定Aは出来事の歴史だけであれば荒唐無稽なのだが、観念やアイデア、思想や宗教教義の歴史となれば、状況はすっかり変わってくる。実在する世界の出来事や事実の歴史は物理学的な因果法則によって表現と説明がなされるのだが、アイデアや言語表現となると、「釈迦がヨーロッパに生まれていたら、何が変わっていたのだろうか」といったことが仮定できるようになり、それだけでも、予測ができない歴史がアイデアや思想を含んだ歴史として存在できることがわかるだろう。

 私たちにわかるのは自然の出来事で、それは物理学の知識によって説明される。だが、私たちにわからないのはそれを表現する知識の本性である。その知識が真なのかどうか、なぜ真なのか、なぜ偽なのかといった疑問は知識についての疑問である。とはいえ、アイデアや知識が歴史をつくるだけでなく、それらは同時に歴史の一部でもあり、思った以上に厄介なのである。

 

 まずは、手始めに『旧約聖書』を取り上げてみよう。『旧約聖書』は全39巻、創世記から申命記までは「律法の書」、ヨシュア記からエステル記までは「歴史書」、ヨブ記から雅歌までは「文学、詩歌」、イザヤ書からマラキ書までは「預言書」と分けられている。「コヘレトの言葉」は、その中で「文学、詩歌」に入る。コヘレトとは討論者あるいは説教者の意味で、ダビデの子、ソロモン王を指す。ソロモン王は「知恵の王さま」で、旧約聖書の知恵文学の多くに関わっている。
 「コヘレトの言葉」のテーマは人生の目的と意味だが、そのために何を求めるべきではないかが述べられている。1章だけ以下に引用してみよう。1章全編を支配しているのが「空(くう)、空しさ」。「空しさ」(vanity)と共に根底に流れているのは「永遠」(eternity)。そして、全てが「空しさ」から「永遠」へと変えられていく。以下は1章の全文で、9は特に有名である。

1 エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
2 コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
3 太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
4 一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
5 日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
9 かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。

(There is nothing new under the sun. Nihil sub sole novum. Il n'y a rien de nouveau sous le soleil. Unter der Sonne gibt es nichts Neues. No hay nada nuevo bajo el sol)
10 見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
11 昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。
12 わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。
13 天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。
14 わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
15 ゆがみは直らず
欠けていれば、数えられない。
16 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
17 熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
18 知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。

 

 さて、「コヘレトの言葉」は旧約聖書の中で最も文学的、かつ哲学的な部分である。とはいえ、グノーシス的な疑問がすぐに頭を擡げてくる。世界や人生の空しさは諸行無常の世界と同じように考えるのが常だが、全能の神がそのような空しい世界を創造したのだろうか、という疑問がまずは出てくる。そして、神が一回だけそれまでにないことをしたのだが、それがキリストの復活だと考えられている。これも不完全な世界の補填のためにキリストを復活させるというのは自らの不手際を認めていることになるという批判につながっている。キリストの復活は全能の神の天地創造が不完全だったことを告白するようなものだという訳である。

 「コヘレトの言葉」は旧約聖書の中でも特に名言の宝庫とされている。それは文学作品として宗教、民族を超えた人間的な疑問に対する哲学的考察が試みられているが、その世界観は旧約聖書の中で異色である。旧約聖書の世界観は、神は人間に自由意志を付与しており、人間が自らの意志で義を選択し行うことを望んでいて、神は人間それぞれの行いに応じて、祝福か罰で報いるというもの。それに対して、「コヘレトの言葉」では決定論的世界観が述べられている。この世のすべては定めがあり、その定めは決して変えることはできないと論じるが、すべてが決まっているのならば、私たちの自由意志は当然否定されることになる。「コヘレトの言葉」にはこのような考えがあるにもかかわらず、一方では神を畏れ、その戒めを守るべきことを説く箇所もある。

 ここで「コヘレトの言葉」の1章9が使われている例を挙げよう。それは芥川龍之介の『侏儒の言葉』の最初の「星」である。短文なので、以下に挙げよう。


 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕( はら)んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。

 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり*

 しかし星も我我のように流転を閲すると云うことは――兎に角退屈でないことはあるまい。

 

正岡子規の短歌で、「数限りなくある星の中に私に向かって光っている星がある」という意味。

 

 芥川の作品にも決定論的な世界観と万物流転が混在し、空しさと好奇心のない退屈な世界がスケッチされています。まずは、これら二つの文章を通じて「太陽の下、新しいものは何ひとつない。」(There is nothing new under the sun. Nihil sub sole novum. Il n'y a rien de nouveau sous le soleil. Unter der Sonne gibt es nichts Neues. No hay nada nuevo bajo el sol)が何を主張しているのか、色々想像してみて下さい。