心と物の壁の有り様:善悪の区別

 心と物の壁を生み出すのは私なのか、それとも言葉なのか。「私が言葉で心の壁をつくる」というのが多くの人の答えではないのか。論理だけでは心の壁をつくれないが、言葉を使うことによって心の壁ができ、心を防御できる。だから、科学理論には心の壁はあっても透明なのだが、それをつくり、扱う科学者には確かに心の壁がある。論理と言語の違いは壁をつくるかどうかの違いにある。そのような考えから、善悪をつくるのは心の壁だと推測できることになる。

 AIを使った今風の議論を離れ、このような話をもっともらしくする、印象的な文脈を過去に探ってみよう。それがグノーシス主義である。この世に満ち溢れる悪の支配、汚濁にまみれた世の中は、いったいなぜ持続するのか。日本でもかつて「厭離穢土・欣求浄土」が唱えられ、それが戦の旗印となったことがある。だが、それより遥か以前、この世は悪だとはっきり説いた世界観があった。

 紀元1世紀から4世紀にかけ、地中海世界で信じられていた思想こそグノーシスグノーシスとは、知恵、知識を意味するギリシア語である。グノーシス主義はこの世が悪に支配されている理由を、この世を作った神が実は「偽物の神」であって、それゆえに、悪の宇宙、狂った世界が生まれた、と説明する。もともと「真の神」の作った世界は充溢した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスあるいは、ヤルダバオートという狂った神を作り出したのだ。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚し、人間の生存している悪の宇宙を作ってしまったのである。そして、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻すのである(反宇宙主義)。

  ヤーヴェが偽物の神であれば、旧約・新約につながる伝説の物語も嘘ということになる。例えば、「アダムとイヴ」の話はキリスト教では、蛇(悪の象徴)の誘惑に負けて、イヴが知恵の木の実を食べ、二人ともエデンの東に追放され、この「原罪」をイエスが死で償って、人類は許されたことになっている。だが、グノーシス主義によれば、この蛇は真の神が遣わした使者であり、人類に真実を見極めるための知恵を与えたということになる。だから、アダムとイヴの追放は原罪ではなく、真実を覆い隠すための刑罰である。

 グノーシスというと、善悪二元論、霊肉二元論が有名である。キリスト教は、善である神の聖性を一つの極みとする、一元論的な世界観をもつ。聖性の不足、欠如はあっても、神の聖性と反対の極にある負の頂点を認めない。グノーシスは、マイナス極とプラス極がある二元論的世界観であり、それに対して、キリスト教はゼロからプラス極しかない一元論的世界観。キリスト教では、悪・地獄・悪魔といった負の概念は、神の絶対性に対峙するものではなく、聖性が欠けているに過ぎない。だが、グノーシス主義の二元論では、精神や霊的な存在は善、物質や身体は悪とはっきり区別して捉える。この捉え方によれば、イエスの身体的存在は幻に過ぎず、イエスの霊的存在こそがグノーシスの顕現となる。また、物質や身体を悪とする捉え方は神の「み言葉」の受肉や十字架の贖い(あがない)を否定し、教会は精神的存在だけでなく、物質や身体も本来聖なるものであると主張した。
 さらに、グノーシス主義はどうしたら神を知ることができるかという点でキリスト教とは違っている。キリスト教では、神は神の方から人間に自身を啓示する。聖書の表現でも、常に神から人間に語りかける。この呼びかけに自らを向けることが、キリスト教的回心である。一方、ギリシャ文化的なグノーシス思想では、人間自身による内面の探求により、神を自力的に知ることになる。グノーシスという言葉は「知識」や「認識」という意味だった。悪に満ちた自己の本質を「認識」することによって霊的善に至ることになり、これが神との一致に繋がる。

 物質からなる肉体を悪とするグノーシス思想から、道徳に関して、二つの異なる立場が出てきた。一方では禁欲、他方では放縦である。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別の存在であり、肉体が犯した罪悪の影響を受けないと説く。

 「スフマート」はレオナルド・ダ・ヴィンチが開発した特別な秘技と思われがちだが、要するに「ぼかし」による空気遠近法。輪郭線をなだらかにぼかし、明暗によって遠近感をつけることで、洋の東西を問わず多くの画家が似たようなことをやってきた。「スフマート」とはイタリア語で「煙のような」という意味で、命名者は確かにレオナルドで、彼自身もこの手法を多用した。風景画が盛んになるのは17世紀以降だが、風景画では空気遠近法が必ず使われる。「スフマート」と空気遠近法の明確な線引きはなかなか難しい。
 8世紀後半には、中国の水墨画でも似たような技法が生まれている。中国や日本の水墨の山水画もぼかしによる空気遠近法で、俵屋宗達が好んだ「没骨法」(輪郭線を描かない技法)も、横山大観の「朦朧体」もスフマートと似たものである。輪郭線をはっきり描くのが伝統だったのに対して、線を抑えて描こうと試みた画法は、当時の画壇から悪意をもって「朦朧体」と呼ばれた。一方、西洋画ではターナーが西洋の朦朧体とも呼べる曖昧模糊とした表現で知られている。大観が、画題の中心に風景を据えたのと同様に、ターナーも典型的な風景画家である。時代こそ100年の隔たりがあるものの描法には共通点がある。

 私たちの周りを見渡すならば、二つのものの輪郭が言葉であれ、絵画であれ、明瞭な境界があるか、連続的で境界はないのか、といったことはどこにでも存在する事柄であることに気づく。通常は輪郭がはっきりしていて、白黒の違いがつく物事からなるのが世界であり、差異をもつ対象や出来事によって世界がつくられていることが仮定されている。だが、使う数学や言葉を変え、描く絵や図を変えることによって、連続する区別のない世界を表現することもできる。善悪を明瞭に区別する二元論のグノーシス主義と善を基本にする一元論のキリスト教神学の違いは、明瞭な輪郭の存在を認めるか否かの違いとして映像化できそうである。スフマート、朦朧体も、波動理論も明確な輪郭を否定するものであり、善悪のグラデーションを認める立場と共通点を持ち、心身の間も一元論的に捉えようとしている。