知識帰命は異安心、それとも安心

 浄土真宗では異端、異説のことを「異安心(いあんじん)」と呼びます。代表的な例に、十劫安心(じっこうあんじん、阿弥陀仏が十劫の昔、本願をたてたときに、既に私たちは助かっている。だから、誰でも死んだら成仏できる)、知識帰命の異安心(ちしききみょう、知識とは指導者のことで、指導者に帰依、服従することは間違いで、指導者の正しい教えは「阿弥陀仏に帰命せよ」)、無帰命安心(むきみょうあんじん、「阿弥陀仏に帰命する必要はない」とする主張で、十劫安心に似ている)、学解往生(がくげおうじょう、経典をしっかり学ばないと、極楽浄土に行けない)、などがあります。

 これら異安心の中から、「知識帰命の異安心」を考えてみましょう。まずは字句の意味の確認で、知識は指導者、帰命は帰依、誤った真宗教義は異安心(いあんじん)。つまり、「知識帰命の異安心」とは、「阿弥陀仏にではなく、指導者に帰依することを求める誤った教義」ということになります。

 知識帰命の異安心は、親鸞の弟子である唯円が著したと言われる『歎異抄』にも述べられています。そもそも「歎異抄」というタイトルは、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味です。親鸞浄土真宗の開祖ですが、親鸞自身は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ(『歎異抄』第6章)」と、人々が自らに帰依することを否定しました。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、あらゆる宗教が陥りやすい誤りです。仏教は、釈迦への帰依を基本としますが、釈迦自身は、「私の悟った法は、過去にも悟る者があったし、未来にも悟る者があるだろう」と語っています。釈迦は最後の旅で、弟子を相手に「私は、四十年間、善なるものを求め続けてきた」とも語っています。そして、末期の説法では、「自らを灯火として生きよ、法を灯火として活きよ」と弟子たちに言い残しています。

  科学者と科学理論に分けた場合、私たちが真理を追求する際に問題にするのは科学理論であり、それを生み出した科学者ではありません。物理現象を解明するとき、誰も物理学者の意識や思想を解明しようとはしない筈です。その物理学者が考えた理論について研究するのです。科学者の話やエピソードが話題になっても、それはあくまでその科学者が生み出した理論や技術を理解し、さらに研究するための助けに過ぎません。

 では、このようなきちんとした区別が思想や宗教にあるでしょうか。哲学も相当に怪しいもので、どうもその明確な区別がないところにむしろそれらの分野の特徴があるように思われます。これは正に、知識帰命の異安心です。プラトンデカルト、カントらの哲学はそれぞれ独自の内容をもち、彼らの哲学の研究はそのままプラトン哲学、デカルト哲学、カント哲学と呼ばれ、哲学理論と哲学者の考えが見事に重なっています。したがって、カントの哲学を研究することはカントを研究することとほぼ同じことになります。ですから、かつて「哲学が専門だ」と言うと、必ずや「誰の哲学を研究しているか」と聞かれたもので、それが当然、自然だというのが常識でした。哲学がこの有様ですから、思想や宗教となれば、思想家や宗教家はその思想や教義と同一視されることになります。いや、そのような一体化こそが思想や宗教を科学知識を超えたものにしてきたのです。

 このように考えると、「知識帰命の異安心」こそが誤りで、宗教や哲学の中には知識帰名の安心と呼ぶ方が正しい場合があったことを示しています。一方、科学はその研究において、知識帰命が無意味である、あるいは誤りであることを実践的に示してきました。でも、その科学と区別するために思想や宗教が採用してきた方法は、思想家や宗教家と結びつけて思想や宗教を捉えてきた点に特徴があるのです。さらに、技術や技能、技やこつを考えると、知識帰命は異安心どころか、正しい説であることがわかります。音楽や絵画、陶芸やスポーツ等々、身体で憶えるための訓練が不可欠なものがたくさんあります。技術や技を習得するために、私たちは指導者の教えに従って学習します。これは科学研究でも実験技術の習得などで経験することです。仏教の修行でも先達は重要です。スポーツで勝つ、新記録を出すためには知識帰命が必要だということになっています。良き指導者を得ることによって優れた選手が育成されると考えられています。

 ですから、浄土真宗が「知識帰命の異安心」を頑なに主張することは自らの実践を否定することにつながる危険さえもっているのです。そのためか、親鸞の教えこそが大切なのだと信じることを黙認することが許されているのではないでしょうか。

 皮肉なことに、これまでの話から、何かを習得するには指導者が不可欠という点では科学、技術、宗教のいずれでもよく似ていることが再確認できたということになります。主張内容が主張者と無関係ではないにしても、二つは異なるものであり、それゆえ、二つは分けて扱われなければならないというのが常識であり、その意味で「知識帰命の異安心」は常識そのものなのです。むろん、主張に関する歴史的研究となれば主張者は大変重要で、無視できません。でも、主張の内容は主張者自身や歴史的経緯とは別のものです。