人に故郷回帰本能があれば…

 秋が深まると、鮭の遡上の季節となる。サケには母川回帰本能があり、秋には自分の生まれた川を遡上する。以前は本能で生まれた川に戻ってくると言われるだけだったが、今ではサケが自分の生まれた川の水の中に溶けているわずかな物質をかぎわけて生まれた川に戻ってくることがわかっている。魚にも鼻があり、呼吸には使われないが、においはかぐことができ、自分の生まれた川を識別できるのだ。また、海では地磁気や海流などを利用して回遊していると考えられている。

 盆暮の帰省ラッシュはかつての日本の「風物詩」。それも最近は随分と緩和され出している。スシ詰めの新幹線はめっきり減り、長蛇渋滞の高速道路も僅かの期間だけ。お隣の中国の春節はかつての日本以上の帰省ラッシュが凄いらしい。そんな思いまでして人々が帰省するのはどうしてなのか。この問いに対して、人には「帰省本能」があるから、と答えたなら、どうだろうか。この仮説が正しいなら、これを利用しない手はない。
 その前に、「帰省本能」は「帰巣本能」の間違いではないのか。その通りで、「帰省」は本能的な行動ではない。それに対して、帰巣本能はれっきとした本能で、例えばハトの帰巣本能は有名である。残念ながら、今のところ私たち人間に帰巣本能があるかどうかは定かではない。多くのサラリーマンは仕事が終われば自分の家に帰るが、漂泊が好きな人も結構いる。また、私たちにとっては帰省は生まれてから学習した習慣に過ぎなく、帰省しない人も少なくない。とはいえ、暫くは帰省本能と帰巣本能を同じだと仮定してみよう。
 もし人にサケのような回帰本能があり、自らの子供を必ず生まれた故郷で産むのだとすれば、現在問題になっている故郷創生など問題にならなかったのではないか。何の対策も必要なく、放っておいても、人は自分の生まれ故郷に戻って出産するのだから、その生まれ故郷の人口減少は今ほどは問題にならないのではないか。すると、生まれ故郷の衰退を殊更に危惧する必要などないことになり、むしろその回帰本能を利用したアイデアを生み出せることになる。
 だが、自分の町で生まれた人たちはその町の何を目印に回帰するのだろうか。町の何に惹きつけられて帰巣するのだろうか。もし人に帰巣本能があるのなら、これは考えるだけでもロマンがあり、面白い。とはいえ、生まれた後の町の発展に惹きつけられるのでないことは確かである。現実に立ち戻って、人がどこで子供を産むかは自由であると言われると、この夢は途端にしぼんでしまう。どこで、いつ、誰の子供を産むのも本人の自由意志に任されているのが人の社会。その社会では人の帰巣本能などはなから否定され、自由社会の障壁として無視されるのが運命というもの。その結果、過密と過疎があちこちに生まれ、人々はそれを直そうと四苦八苦することになる。自由主義の社会とは何とも厄介な社会なのである。回帰本能の痕跡くらいはないのかと思いたくもなるのだが…、過去の子供の頃の記憶に頼って、それに訴えるくらいしか手はなさそうである。それでも、今故郷で生活している子供たちには懐かしく思い出せる記憶、よい想い出を残すこと位ならできるのではないのか。