介入と二値性の原理

 

  過去の歴史は決まっていて、その歴史を私たちは変えられない。

 私たちが変えることができるのは未来の事柄である。

 

これら言明は誰も疑わないような自明の真理の典型例と考えられています。過去は私たちの認識、知識とは関係なく決まっていて、未来は私たちが自由に決めることができる、と普通に考えられています。でも、過去の何がどのように決まっているのかはけっして明らかではなく、むしろわからない場合の方が圧倒的に多いのです。昨日の事件を誰が正確に再現できるというのでしょうか。あらゆる箇所にわからないことが山積みなのだ、というのが私たちの実感です。同じように、未来もわからないことだらけで、変えることができるかさえわからないのです。これもその通りと相槌を打ちたくなるのですが、私たちが知らないだけで、実はすでに決まっているのだという考えも根強くあり、それを否定できる確たる証拠もどこにもないのです。私たちにはわからないが、実は決まっているというのは、都合のよい考えというだけでなく、時々は心地よく響く効果さえ持っているのです。

 このように見てくると、誰でもが「過去は決まっているが、未来は変えることができる」と信じていることが疑わしいものに思えてきます。では、何が本当のことなのでしょうか。私たちは過去に戻ることができませんし、未来を先取りすることもできません。私たちは現在から過去や未来について既存の知識を使って判断するしかありません。ですから、私たちが当事者として眼前の出来事に介入(intervene, intervention)できるのは現在だけであり、過去や未来の出来事には直接介入することができません。むろん、現在の出来事にも介入せずに傍観するだけ、無視するだけということも可能ですが、過去や未来の出来事には原理的に介入できないのです。「現在の介入が原因になって、過去や未来の出来事が結果として変わる」ことが私の言いたいことの一つなのですが、それを含めて少々丁寧に分類してみましょう。分類の基準に使われる「二値性の原理(the principle of bivalence)」とは「どんな言明も真か偽のいずれかの真理値をもつ」という論理学的な主張のことです。

 

(1)二値性の原理が成り立ち、言明が存在論的に解釈される場合

 私たちが個々の言明の真偽を実際に知ることを考慮せずに、それとは関係なく、どの言明の真偽も決まっていると仮定するのが伝統的な形而上学的な決定論の主張です。この決定論では、二値性の原理によって、過去、現在、未来に関係なく、言明の真偽はいずれかに決まっていますから、「過去も未来も、そして現在も決まっている」という完全な決定論に対応しています。つまり、これは世界の出来事、事態は私たちが知る、知らないこととは独立に決まっているという考え方になり、それが形而上学決定論と呼ばれる所以なのです。私たちが世界の出来事に介入し、その出来事を実証的に扱うことは一切考慮されていません。形而上学決定論にとって私たちの存在は無に等しく、私たちはせいぜい傍観者でしかないのです。ということから、この立場は近代以降の私たちには不自然、不十分であることがわかります。

(2)二値性の原理が成り立ち、言明が認識論的に解釈される場合

 古典力学的な言明がこの場合の典型例となります。古典力学の言明は過去、現在、未来に無関係に成り立ち、それゆえ物理的(古典的)決定論が成り立っています。それを端的に示すのが「ラプラスの魔物(Laplace's demon)」です。魔物は力学的な普遍的決定論が正しいことを象徴するもので、存在論と認識論が古典力学によって総合されることの表明となっています。魔物ではなく、通常の私たちの認識論的な適用は情報が完全ではないので、局所的決定論の主張になります。一見すると(1)と似ているのですが、現在についての情報をすべて知っていないと、普遍的決定論は掛け声だけに終わってしまいます。最初に前提される情報が十分でないと過去も未来も十分に予測できないというのが(2)の場合で、これが(1)との決定的な違いです。

(3)二値性の原理が成り立たず、言明が認識論的に解釈される場合

 二値性の原理を否定すると、真でも偽でもない言明があることになります。その言明の真理値は真偽以外の第三の値であり、それゆえ言明は三つの真理値をもつことになると考えるのが三値論理(three valued logic)です。そこから、さらに一般化すれば、多値論理(many valued logic)、ファジー論理(fuzzy logic)と呼ばれるものになり、真理値の数は様々に考えることができます。また、直観主義論理(intuitionistic logic)も二値性の原理が否定され、認識論的に数学的対象を捉えるため、多値ではありませんが、多値論理と同様に排中律(law of excluded middle)は成立しないことになります。

(4)二値性の原理が成り立たず、言明が存在論的に解釈される場合

 この適用は滅多にないように思われるのですが、その唯一と言ってよい例が量子力学コペンハーゲン解釈です。確率的な値をもつ言明がそのままミクロな世界の現象に対して成り立つというものです。このようなことはマクロな物理世界では成り立ちません。ですから、マクロな世界ではシュレーディンガーの猫は生きているか死んでいるかのいずれかなのです。そのため、ネコが半ば生きていて、半ば死んでいるようなことが許されるミクロな世界は古典的な決定論的世界に慣れた私たちにはとてもわかりにくい、ほとんど了解不能な世界ということになります。

 

 これまでの話から、存在論や認識論が過去や未来に関して適用される場合、その適用のマナーがはっきりしていないことがわかります。特に、存在論的に真偽いずれかの値をもつことは私たちの介入を必要とせず、それとは独立に決まっていることなのです。私たちが介入することによって実証的な判断をし、真偽を決めたものは修正の余地があり、それが科学的知識が暫定的だということの理由となっています。現在が確定していれば、過去も未来も確定しているという主張は無害に思えるのですが、その確定にはいつも修正の余地が残されているのです。むろん、未来の出来事もそのような意味では決まっていないのが普通です。

 私たち人間は実に老獪で、上記の四つの場合を状況に応じて巧みに使い分けています。ですから、「過去は決まっているが、未来は変えられる」とも「過去も未来も変えられる」とも言い抜けることができ、万物流転論も運命論も共に主張して憚らないのです。残念ながら、四つの立場がどのような使い分けをされるべきかは不明なままです。とはいえ、これまでの話から介入とその介入の前提状況について詳しく確認することによって、ある程度は混乱が避けられることは確かです。