連続的な無限が溢れる物理世界の描像

1教科書風に考えると…

 どんな広大な砂漠の砂粒でもその数は有限です。というのも、砂粒には必ずサイズがあり、どんな微小な砂粒でも無限個集まったら、砂漠の面積も無限の大きさになってしまい、そのため有限のサイズしかもたない地球にはこのような無限の面積をもつ砂漠は収まり切れないからです。塵も積もれば山どころか、地球には入り切れなくなってしまいます。そのため、地球の中にある砂漠の砂粒の数は有限です。この帰謬法(reductio ad absurdum)を使った簡単な議論と同じように考えれば、物理世界のどんなものもその個数や量は有限でしかないことになります。したがって、無限個の対象、あるいは無限量の塊は物理世界には存在せず、この物理世界は有限のものの集まりからなり、無限はそれを考える私たちの概念の世界にしかない、いわば数学的な存在であると結論できます。この推論は大変単純ですが、物理世界と数学世界の特徴を明瞭に区別してくれるものとして多くの人に受け入れられてきました。その区別を念のために述べれば、

 

物理世界に存在するものは悉く有限で、無限のものは数学世界にしか存在しない、

 

となります。

有限、無限という言葉がたくさん出てきましたので、それらに関連する用語を幾つか以下に挙げておきましょう。

 

有限finite 、無限infinite、枚挙可能enumerable、denumerable、可算、可付番countable 、非加算、非可付番uncountable、連続体continuum、等々。[1]

 

有限であるとは、数えていくとどこかで数え終わることができるような性質です。自然数は小学校で最初に習う数のシステムですが、その自然数でさえ個数は無限個あります。自然数が有限で、その最大の数がnだとすれば、n + 1も自然数で、nが最大なのですから、n + 1 < nとなり、n < n + 1と矛盾します。ですから、自然数は無限です(これも帰謬法による論証です)。自然数すべてを数え尽くすことはできません。そのため、自然数をその一部として含む整数、有理数も無限になりますし、無理数も無限ですから(どうしてでしょう?)、有理数無理数を含む実数も当然無限になります。つまり、私たちが習ってきた数のシステムはどれも無限のサイズをもっているのです。[2]しかも、無理数や実数の個数は自然数、整数、有理数の個数と違って、枚挙可能でも可算でもない無限、すなわち非可算の連続体になりま。

 

(問)砂漠の砂粒が有限なら、ある瞬間の砂粒の個数は確定していて、特定の個数のはずです。始終風に浸食されているといった物理的な理由以外に「個数の確定性」を阻むものはあるでしょうか。同じように、君の今の身長、体重、髪の毛の本数等は確定しているでしょうか。では、無限の自然数の個数は確定しているのでしょうか(確定しているとは特定の自然数として確定していることなら、無限の自然数の個数はどんな自然数になるのでしょうか)。また、確定していないものや性質はそもそも考えることができるのでしょうか。[3]

 

(問)有限で終わる数のシステムがあるなら、その数のシステムはものを数えたり、測ったりするには欠点があることを説明しなさい。[4]

 

(問)実数を一つずつ枚挙していくことが無限にできるとしても、そのような枚挙の仕方では実数すべてを枚挙し尽くせないことを示しなさい。この問題は実数が有理数と異なるサイズの無限であることを示す大切な定理になっています。G. Cantorが有名な対角線論法(diagonal argument)と呼ばれる方法を使って、実数は枚挙し切れないことを証明しました。実数が何個あるかと尋ねられたとき、100までの自然数が何個あるか、自然数全体が何個あるかという場合の「何個」とどのように異なっているか、様々に想像してみて下さい。100個の実数、数直線の区間[0, 1]の間の実数の個数、実数全体の個数はそれぞれどんな集まりになるか、果敢に色々想像してみて下さい。

 

(問)ある実数の直前の実数と直後の実数はどのように表現できるでしょうか。ある実数をaとしたら、aの直前、直後の数はどのように表現されるでしょうか(aが実数ではなく整数なら、直前はa – 1、直後はa + 1と表現できます)。君が座っている座席の前と後ろの人を君はどう表現するかという問題と比較しながら考えてみて下さい。

 

2反教科書風に考えると…

ここまでは教科書通りの話です。でも、物理世界のどんな対象も本当に有限なのでしょうか。物理世界に始まりや終わりがないとすれば、生まれ続けてきた生き物はこれからも生まれ続けていくはずですから、その個体数には限りがないことにならないのでしょうか。3次元の空間も、それに時間の次元が加わった4次元の空間もどこかで座標軸が終わるということはありません。実際、それは座標軸が両方向に限りなく延びる直線によって表現されていることからもわかります。無限の長さをもつ三本の直線によってつくられる空間は無限の広がりをもつ空間です。このような疑問が次から次へと頭をもたげてきます。

秀吉暗殺に失敗し、釜茹でになった石川五右衛門の辞世の句「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」や、それを下敷きにした弁天小僧の名せりふ「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねえ七里ケ浜…」には、砂粒の有限な個数と、世代が続く限り、尽きることなくこの世に登場する盗人の人数の対比が見事に表現されています。石川五右衛門の辞世の句は教科書通りでなく、物理世界にも無限があることを実に見事に表現しています。

 

そこで、最初に限りある長さ、大きさ、間隔であっても、そこに無限が存在できること、次に文字通りの無限の長さ、広がりをもつ時間や空間について考えてみましょう。

 

3有限の中に潜む無限

 まず、物理世界の対象にはどのようなものがあるか見直してみましょう。身の周りの椅子、本、鉱物、生物等は皆この物理世界の対象で、通常は眼に見える対象として、一定のサイズをもって存在しています。小さくて見えない分子や原子もそれぞれサイズをもっています。どのように工夫しても見えないが、それにもかかわらず存在すると思われている対象など、一部の素粒子を除いて、あるのでしょうか。この疑問に答えるような格好の候補が時間や空間です。椅子や本と同じように存在するかどうかは意見が分かれますが、時間や空間は物理世界を考える上で不可欠のものです。時間や空間もこの物理世界では限りがあり、無限に遡ることができる過去も無限の大きさをもつ天体もないと考えられています。物理世界の時間や空間も物体のサイズや個数と同じように、その長さや広さは有限に限られていると断定したくなるかも知れません。そこで、普通の長さの距離や人の一生の間の時間を頭の片隅に置きながら、限られた長さや大きさをもつ時間や空間(そして、その中の対象)のどこに無限が入り込むのか考えてみましょう。でも、10秒、3cm、56kgのどこに無限が存在するというのでしょうか。

 

幾何学的な構成:点や線の絶妙な定義

ユークリッド幾何学の定義とその解釈を今更確認する必要はないのかも知れませんが、普通議論されない最初の定義が如何に大きな効果をもつものかを再認識してみましょう。併せて、数学的な言語が自然変化の表現にどれほど重要な役割を果たすかをモデル、表象という観点から捉え直してみましょう。

 点から線をつくることが定義上できる筈ですが、手を使って作図する以外の仕方でどのように線をつくるのか、その方法を構成的に示せ、と言われるとできないところに全ての謎の出発点があります。点の定義からしてありえない定義です。部分がない、つまりサイズのないのが点である、と言われて訝しく思わない人がいたら余程鈍感な人ではないでしょうか。素粒子のことなど知らないギリシャ人でも、物理的な対象にサイズがなかったら、物理世界に存在することさえ覚束ないことが直ぐにわかります。物理世界に存在しないからこそ、プラトン的な存在なのだと鸚鵡返しに習ったことを思い出して安心してしまう人などいないと思います。その上、サイズのない点が集まって線ができ、その線も長さはあっても太さがなく、線からつくられる面は面積があっても厚みがないということになっています。こんな幾何学的な存在では物理世界を正しく表現などできる筈がないというのが理屈です。そして、点、線、面、それらから構成される図形はいずれも物理世界には存在できないものであり、それらを使って物理世界を測ったり、表したりすることは不可能、不合理だと考えるでしょう。

でも、私たちはギリシャ以来その幾何学を不自然なものとは思ってこなかった。線に太さがあり、面に厚みがあったら、長さ、面積、体積の計算がうまくいかないことを十分承知しています。幾何学的対象が存在し、しかるべき性質をもつためには、サイズのない点、幅のない線、厚みのない面が不可欠なのです。物理的な対象がいつでも確定した位置や運動量をもつと言えるためにはユークリッドの定義に従わなければならないのです。ですから、物理世界を描き出す基本的な枠組みとして幾何学を採用してきたし、それで不合理なことなどなく、大成功を収めてきたのです。

 

幾何学での点、線、平面>

ここでユークリッド幾何学の基本前提を確認しておきましょう。以下に挙げるものはユークリッドの『原論』で述べられた前提です。従来、最初の定義より公準(postulate)の方が注目されてきましたが、ここでは定義に注目し、定義の中で、最初の三つを挙げてみましょう。

 

A point is that which has no part.

A line is breathless length.

The ends of a line are points.[5]

点にサイズがあり、延長をもつとします。その延長の半分も延長であり、かつ延長の半分は元の延長の一部分です。よって、点は部分をもつことになり、定義1に反します。それゆえ、点にはサイズがありません。また、点にサイズがあれば線にもサイズ、つまり幅があることになります。でも、これは定義2に反します。よって、定義の1,2いずれからも「点にはサイズがない」ことが得られます。また、線を限りなく短くしていくと最後にはサイズのない点に至ります。この<サイズの消失>を量から質への転換などと考えるべきではありません。[6] 

(点から線はつくれるか。線を分割していくと点になるか。)  

[解答1]点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

[解答2] 区間[0,1]が0と1の間にある個々の点からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かです。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈です。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の要点は「実数」概念にあります。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応します。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できます。つまり、区間[0,1]にある点をすべて集めれば区間[0,1]をつくることができるし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数値に到達できます。このように考える核心にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」です。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残りますが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できます。[8]実数の性質は高校までに一応習ったことになっていますから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなります。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをもつ理由も併せて説明できます。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、自然数を主に使って考えた(少なくとも実数は使わなかった)ギリシャ人なら答えはNoとなるのです。実数は連続体だが、自然数は離散的でしかない。これが解答のYesとNoの違いを生み出しています。[9]

[1] これら用語は氷山の一角に過ぎません。もっとたくさんの関連する数学用語とそれら相互の関連があります。

[2] ですから、私たちは子供の頃から無限にもっと親しんでいてもよかったはずですが、無限はほとんど無視されてきました。無限は確かに難しい概念ですが、小学生には全く歯が立たない概念というわけではありません。「限りなく続く、限りなく出てくる」ことがわからないと言ったら、小学生に失礼です。

[3] 誰も今の地球の正確な総人口を知らなくても、だから総人口は不確定だとも、また今の正確な時刻を告げられなくても、今の時刻は決っていないなどと考えないはずです。あることを知らないこととそれが定まっていないことは大変異なった事柄で、「認識上の不確定性」と「存在上の不確定性」と区別できます。では、ハイゼンベルク不確定性原理(uncertainty principle)はいずれの不確定性を主張しているのでしょうか。

[4] 月並みな解答の後に、地上のどんな対象のもつ長さや重さより大きな数を一つ仮定すれば欠点はなくなると考える人がいるに違いありません。その人には、空想上、理論上の対象の測定を尋ねるのがいいでしょう。彼女はそれまでにない値が登場する毎に数もより大きいものを選べばいいと答えるかも知れません。それにはどんな大きな値になっても通用する理論上の測定をしたいのだと言っておきましょう。

[5] ユークリッドの定義はHeathの訳を用いた。Sir Thomas Little Heath, The thirteen books of Euclid's Elements, Cambridge: Cambridge University Press, 1908

[6]点に部分がないことから、サイズがないことを証明したが、そこに隠れていた前提は分割可能性である。自然に「サイズがあり、部分がない」ことは、自然に「サイズがあれば、部分がある」という主張と両立しない。ここでの違いは自然が「分割できない」ためである。原子論と全体論の関係を確認しておこう。原子論の下での原子の全体性と全体論の下での宇宙全体の全体性は異なっている。ユークリッドの定義を使った場合、原子が部分をもたないことから、分割性を使って原子がサイズをもたないことを証明した。宇宙は当然サイズをもつ。しかし、それは部分をもたないというのが全体論の主張である。すると、原子論では「サイズがあれば、部分がある」という主張が正しいのに、全体論では「サイズがあって、部分がない」ことが正しい。この両立しない理由は原子論と全体論が異なることを主張しているというより、分割可能性が両者を分けているといったほうが適切だろう。分割可能性が成立する原子論ではそれを使って「サイズがあれば、部分がある」が証明されているが、全体論では全体は分割できないという主張から分割可能性が使えない。それゆえ、サイズがあるのに、「部分がない」と仮定しても矛盾は生じない。だが、分割可能性が使えないことの代償は大きい。

[7] [解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるだろう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっている。ところで、0 + 0 +…+ 0 +…= 0は、+が無限個あるなら、無限の加法はなく、…が何か判明しないと何を述べているのか不明であり、その意図を察することは容易でも、見かけと違って意味不明な記号の系列である。

[8] 細部が曖昧だという漠然とした不安は、これら一連の操作が「構成的(constructive)」に可能か否かに関する不安である。この不安を重大な問題と考えた直観主義者は、不安は不確定なものの存在にあり、それを無視できないと考えた。私たちが数学的対象を具体的につくり出せるか否かという認識上の不安はあるが、それを無視することによってより広い範囲が射程に入り、広大な無限の世界を扱うことができると考えたのが通常の数学者である。

[9]上の問いはいずれも点や線に対応するものが物理的には時間や空間だと考えると従来の議論の自然な解釈になるが、対応するものが物質の場合はどうだろうか。物質は明らかにサイズや延長をもっている。デカルトでなくとも誰もそのように考えるだろう。そして、物質を限りなく分割していくことはできないと誰もが認める。実際、ギリシャの原子論は物質が限りなく分割できるものではなく、分割には終着があり、それがこれ以上分割できない、不可分の「原子」であるという仮説であった。それゆえ、原子はサイズをもつ「物質の最小単位」と認められ、原子からの物質の構成も有限の時間、手続きを通じた有限の原子数をもったものと考えられた。高々自然数を用意しておけばすべての話は何の問題もなく済んでしまう。自然の中のどんな物質もその数がどれ程多くても有限に過ぎないという確信は、物質についてのこの原子論に由来している。(それゆえ、私たちは浜の真砂の数や見上げる夜空の星の数を莫大だが有限個しかないと信じている。)原子論が正しいとすれば、本文の問いはことごとくつまらない問いとなり、点である原子から「原子線」も「原子面」もつくることができるが、そこに興味を抱くことは何もない。すべては有限の操作に過ぎず、点と線の本質的な区別がないからである。点にも線にもサイズがあり、その長さは単に程度の違いに過ぎない。それゆえ、Noと答えた人の答えとその形而上学的理由は時空については誤っているが、物質についてはまったく正しいことになる。物質に関する原子論とその無限分割可能性は、したがって、両立しない概念であり、いずれも論理的に正しいわけではなく、その意味で正に仮説である。それゆえ、時空の量子化(=原子化)や物質の無限分割化はいずれも論理上は可能な仮説ということになる。