右京さんの正義

 『相棒』は未だに人気のテレビドラマ。杉下右京さんは共同体、国家といった組織の安泰より正義を優先する孤高の一匹狼。高倉健が人情ではなく義理のために戦うように、右京さんは警察組織の存続、維持などより、あくまで法の正義を優先し、そのために行動する。『相棒』は謎解きと正義をダブらすことによって日本人の心を掴んだのだと思う。「義理と人情」、「正義と善」は同じ対ではない。義理と正義は違うし、人情は善や幸福ではない。だが、それらを敢えて重ねれば、義理の健さんも正義の右京さんも共にヒーロー。

 健さんと同じく、右京さんも孤独。だが、それではドラマをつくれないので、相棒が必要になる。徒党を組んだ相棒では駄目で、いても高々一人。肝心な点は、相棒も組織や集団では駄目。シナリオは、普通の刑事事件ではなく、警察を始めとして組織内部の事件がとても多い。その理由は明々白々で、組織の保持、優先に対する正義の戦いで、それが義理人情の話に呼応する。忠臣蔵から健さんまでの義理人情は右京さんの正義に繋がる。

 ロールズの『正義論』はアリストテレス以来の善優先の倫理に対し、正義優先を説いたものだと言われるが、そのような正義と日本独特の義理人情が混じり合う度合いは異なるが、右京さんは健さんとダブり、相棒と共に悪に立ち向かい、(正)義を貫き通す、それが日本人にすこぶる受けるのである。そんな右京さんの姿にダブるのが日本相撲協会と闘っていた頃の貴乃花親方。こうなると日本人は判官びいきで、組織に抗する英雄的な行為こそ正義だと(早)合点してしまうのである。

 「第一義」、「正義」、「義」、「義理」等々、様々な言葉がこれまで使われ、みな微妙に意味が違っている。越後の人たちならこれらの語彙が聞こえると、ほぼ反射的に「上杉謙信」という郷土の英雄が連想され、越後の人たちには謙信が右京さんや健さんの原型として歴然と存在しているのである。

 善や幸福とは異なるのが「正義」であり、正義のために人間は戦い続けてきた。幸福と正義はどのように違うか、それをはっきりさせるのは意外に厄介なのだが、正義の方が映画やテレビドラマで表現しやすいのかも知れない。幸福の物語より正義の物語の方がアクションとうまく合う。幸福のための戦争より正義のための戦争の方がしっくりするという人がほとんどではないだろうか。だから、謙信も義の人として正義のために戦ったのであり、幸福のために戦ったのではなかった。