越後の良寛

  越後には詩人が多く、優れた詩歌が生まれてきた。実際、会津八一も相馬御風も、そして西脇順三郎も越後生まれの詩人。越後出身だからと言って、その文学が越後的、越後風などと言うことはない。彼らが求めた詩や歌の精神は人間の生存や自然の姿に根ざした普遍的なもので、「越後」は彼らの文学の契機の一つに過ぎない。

 良寛が人々の注目を浴び出すのは、大正期の中頃以降のこと。それには相馬御風の一連の著作が大きな役割を果たした。糸魚川出身の御風は早稲田大学で新潟出身の会津八一と同期で、坪内逍遙島村抱月らに薫陶を受け、その良寛論は良寛を生き返らせた。そして、自我に目覚めた人たちは苦悩の中で良寛の生き方に憧れたのである。禅の悟りを得て俗世を捨てた無私無欲のやさしさ、清らかさが、人々の共感を呼んだ。  

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 良寛の書は、『天上大風』(子供たちの凧のために書いたもの)のように童心にあふれたものばかりではない。若い頃から王羲之小野道風を本格的に学び、草書にも熟達していた。『天上大風』は天の字だけが異常に大きく、しかも第一画と第二画の間がずいぶん離れている。風も中の虫が左に寄ってしまっている。落款の「良寛書」の位置もよくない。それでも、全体としてぴたりと収まっているのが不思議。何より、このほのぼのとした素朴さは意図したものではない。そして、それが私たちを魅了する。

 良寛は1758年越後出雲崎の庄屋の長男に生まれ、18歳で出家、備中玉島の円通寺で参禅修行し、印可を受けた。全国行脚の後、故郷の地で草庵に身を寄せ、自適の生活を送る。和歌、漢詩、書に優れた作品を残す。そこには良寛の「本来無一物」という禅の教えに徹したところに、無垢で清々しい境涯が生まれた。良寛は行動も自由自在、子供たちとすべてを忘れて遊び続ける無邪気さをもっていた。だが、良寛は厳しい禅の修行をした禅僧であるだけでなく、彼は浄土教に深い共感と理解を示している。

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ
草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
我が後を 助け給へと 頼む身は 本の誓ひの 姿なりけり
(私が頼むこと自体が弥陀の誓いによって成就するとは、親鸞の「如来より賜りたる信心」のこと)

 良寛の辞世の句は二つ挙げられている。

散る桜 残る桜も 散る桜
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
芭蕉の友人であった谷木因(たに・ぼくいん)に「裏ちりつ表を散りつ紅葉かな」という句があり、良寛の「うらを見せ……」の句はこの木因の句を踏まえて詠まれたものである。)

 融通無碍で、自由な良寛般若湯(酒)も嗜み、乞食で山を下りる時は懐に手マリを入れて日暮れまで子供たちと遊び、マリ突きやかくれんぼをしていた。

この里に 手まりつきつつ 子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし

 

 良寛の歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛に弟子なりたいと願い出る。良寛70才、貞心尼30才の時である。貞心尼が会ってくれるよう願い出ても、良寛は歌詠みの尼僧である貞心尼に会おうとしなかったので、ついに貞心尼は草庵に良寛を訪ねる。良寛は不在だったが、貞心尼は持参した手マリと歌を庵に残して帰る。

これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ(貞心尼)

このことがあってから良寛は、貞心尼に興味をもち、歌を返した。

つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめてまたはじまるを(良寛

貞心尼は、初めて良寛に会った時の喜びを素直に歌にしている。

きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ(貞心尼)

良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの数年間、お互いを慈しみ敬愛する恋愛を続ける。

天が下に みつる玉より 黄金より 春のはじめの 君がおとづれ(良寛

村人は、二人の仲を噂し、心配するが、二人は一向に意に介さなかった。二人は度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠み、そして、良寛は貞心尼に看取られて亡くなった。

形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉(良寛

良寛の死後、貞心尼は良寛の旅した跡を追い、良寛の遺した歌を集め『蓮(はちす)の露』という良寛の歌集を自ら編んだ。