グノーシス主義とマニ教

 グノーシス(gnosis)とは「知識、認識」を意味するギリシャ語(英語の know の語根)。グノーシス主義は善悪(真偽)の二元論が特徴で、自己の本質を知ることによって人間の解放を目指す。キリスト教では全知全能の神の世界支配が前提であるため、私たちが生活する世界に諸悪があることをうまく説明できない。これに対して、グノーシス主義は世界の堕落と腐敗という事実からスタート。至高神が創造神(デミウルゴス)を創造し、この創造神が世界を創造するのに失敗し、そのため世界には悪や偽が満ちている。そして、人間は本来神の子なのだが、この堕落した世界の中で自己の本質を見失い、眠り込んでいる。神はこれを救おうと使者を送るが、彼もまたこの世界に囚われ、光を見失う。グノーシス主義、またはグノーシスは、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教あるいは思想の一つで、物質と霊の二元論に特徴がある。

 1966年4月にメッシーナ大学でグノーシス主義研究者たちの「国際コロキウム」でグノーシス主義とは何かという学術的な定義の提案が行われた。これが「メッシーナ提案」。この提案によると、紀元2世紀から3世紀頃のキリスト教グノーシス体系を「グノーシス主義」と定義し、より広い意味での「秘教的知識」の歴史的カテゴリーを「グノーシス」と定義した。しかし、この定義が完全に定着したわけではなく、一般には「グノーシス」、「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており、キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。

 グノーシス主義の最大の特徴は「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界観。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという立場のこと。グノーシス主義者は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるためだと考える。彼らはこの宇宙が「善の宇宙」ではなく「悪の宇宙」だと考えた。これがグノーシス主義の「反宇宙」論。宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善というのは誤謬だと考えられた。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、偽の神である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」、「イデア」こそは真の存在である。

 1950年に『ナグ・ハマディ写本』の最初の総括的研究報告が発表されると、グノーシス主義についての理解は大きく変わった。まず文書のなかにキリスト教的なものと非キリスト教的なものが混在しており、これはおそらくグノーシス主義キリスト教が本来別個であったことを示すと考えられた。さらに、キリスト教に取り入れられたグノーシス主義は初期キリスト教思想の形成に大きな役割を持っていたことも確認された。また、グノーシス主義ユダヤ教の神話やギリシャ哲学とも密接な交流があったことも明らかにされた。

 グノーシス主義は、エジプト、シリア、パレスティナ小アジアギリシア、ローマなどで興隆した「西方グノーシス主義」と、イラン、メソポタミアなどで成立した「東方グノーシス主義」の二つの大きな宗派に分かれる。東方の代表がマニ教であり、それを詳しく眺めてみよう。

 

 マニ教(Manichaeism)は3世紀中葉にササン朝ペルシア帝国(イラン)で、マニ(Mani, Manichaeus)がつくった啓示宗教。イベリア半島から東はインド・西域を越えて中国にまで布教された。マニ教は消え去ったが、残存していれば、その教えの普遍性から、仏教、キリスト教イスラム教と並ぶ、第四の「世界宗教」だった。
 マニは、西暦216年4月14日、南バビロニアのユーフラテス川沿いの村マールディーヌで生まれた。240年、マニが24歳のとき、聖なる天使パラクレートスの啓示と召命を受け、マニ教を宣明する。彼の生涯はほとんど福音伝道の旅に費やされたが、その伝道の初期、ササン朝第二代の王であったシャープール一世の弟がマニ教に帰依し、この弟の仲介でマニはシャープール一世に拝謁し、ペルシア帝国内でのマニ教布教の許可を得る。彼はマニ教の教義綱要をみずから著した最初の教典『シャープーラカーン』を王に献げる。マニは数多くのマニ教教典を著すが、その大部分は散逸し、残っていない。
 シャープール一世の庇護の元、マニはマニ教ササン朝ペルシアに広く布教し、更に弟子たちを派遣して、シリア、エジプト、インドなどにもマニ教の勢力を拡大させる。だが、イランにおけるマニの立場は、庇護者のシャープールの没後、急速に悪化し、シャープールの継承者であるバハラーム一世はマニを断罪し、マニは捕らえられ殉教する。。

 イランではゾロアスター教民族宗教として国教となり、マニ教を弾圧したため、マニ教は、東方インド、更に西域へとその勢力圏を拡大させた。また西方では、ローマ帝国領で広く布教され、原始キリスト教に匹敵する宗教勢力となった。シリア、パレスティナ、エジプト、北アフリカには多数のマニ教信徒やその共同体が生まれ、アウグスティヌスもまた、若き頃マニ教の教義に牽かれ、信徒に加わっていた。
 しかし、キリスト教ローマ帝国の国教の地位を占め、度重なる公会議開催を通じて、内的な異端論争を行うにつれ、異教であるマニ教もまた「グノーシス主義異端」の一派として迫害され、次第に衰退して行った。またメソポタミアでは、7世紀にムハンマドを開祖としてイスラム教が成立し、ササン朝ペルシアを滅ぼすが、イスラムもまたマニ教を「異端異教」として迫害したため、マニ教はその本拠を次第に東方へと移して行った。
 西暦694年に、マニ教の布教者が当時全権を掌握していた唐の武則天に拝謁して、中国での布教の許可を得た。中国ではマニ教は、仏教、ゾロアスター教ネストリウス派キリスト教と並んで布教に成功した。758年の安禄山の乱において、弱体化していた唐朝を支援して乱を鎮定したウイグル王ヤブグ汗がマニ教に帰依した結果、マニ教は、ウイグル族の国教となり、西域で大いに繁栄した。

 マニ教では、ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教、仏教などの教義や神話などが接ぎ木され、混成されている。この理由の一つは、宗祖マニが「教えの神髄」の福音伝道を重視し、みずから書き著した教典を諸国語に翻訳させるに際し、入信者が理解し易いようにゾロアスター教の優勢な地域への伝道には、ゾロアスター教の神々の名や神話を適用し、キリスト教ユダヤ教が優勢な地域への伝道には、それぞれユダヤ教キリスト教の神話や教義に仮託してマニ教の教えを説くことを許容したためである。
 マニ教は、グノーシス主義の反宇宙的二元論を前提にし、「光・霊・善」と「闇・物質=肉・悪」の二元論よりなる。イラン型グノーシス主義の特徴として、これら二つの原理が、世界には原初のときより、並列して存在していたと説く。人間は闇の物質で造られた世界に生き、私たち自身の肉体もまた闇の物質である。しかし、アダムとヘーヴァを通じて、またセトを通じて、私たちの内部には「光の元素の破片」が潜んでいる。この闇の世界から救済されるために、私たちは「グノーシス」すなわちマニ教の啓示を知り、真実に覚醒しなければならない。
 西方グノーシス主義は生殖行為を絶対的に禁止したため、世俗的一般大衆への布教という観点から見れば、理念的で、永続しない教えである。これに対し、イラン型グノーシス主義であるマニ教の信徒論は、おそらく仏教の出家信徒集団と在家信徒集団から着想を得たのか、信徒を厳格なマニ教の戒律に従い修行する「選良者」集団と、緩やかな戒律のもと世俗生活を送りつつ、選良者たちの生活を支える「聴講者」集団に分けることによって、世代を超えるグノーシス主義宗教を可能にした。
 マニは預言者使徒であるだけでなく、同時に巧みな教団組織者であり、マニ教の教義と神話を「福音書・教典」を著すことで明らかにしつつ、同時に、増大する信徒の数に応じて、その共同体を律する仕組みも自ら構築した。「選良者」と「聴講者」の関係は、キリスト教の「修道士」と「平信徒」の関係に似ているが、根本的に異なるのは、キリスト教の修道士はみずからの修道共同体のなかで生産活動を行い、自給自足したという点。マニ教の「選良者=修道士」は、その宗教の本来の教えの通り、生殖行為を行なわず、かつ物質的生産活動を一切行わなかった。マニ教の選良者=修道士は、仏教の出家僧と同様に、物質的生産活動には従事せず、従って彼らが生存を続けるに必要な一切の物資は、在家信徒である聴講者からの「布施」に頼っていた。衣食住のための物資的基盤は在家信者である聴講者が修道士に布施を通じて提供したのであり、原始仏教の仕組みによく似ていた。

 様々な意味で「異端」とされたマニ教は、それでもユーラシア大陸世界宗教として、マニの時代から千年以上存続する。そして、マニ教イスラム教に背後から追撃を受け、東へと移動して行った。中国で8世紀に伝道に成功し、やがてウイグルの国教となったのも束の間、ウイグルキルギスに敗北し、9世紀には中国においてマニ教を含めて諸外来宗教の迫害が起こる。中央アジアでのマニ教も13世紀頃には、中央アジアからその痕跡を消してしまう。
 西暦3世紀後半のディオクレティアヌス帝の迫害も乗り越えて、4世紀から5世紀にアレクサンドリアで最盛期を迎えた西方のマニ教も、ビザンティン帝国ローマ・カトリック教会双方から迫害を受け、6世紀から7世紀頃には姿を消す。しかし「マニ教的伝統」は西洋に長く残り、東方アルメニアパウロ派や、ブルガリアで10世紀から12世紀にかけて繁栄したボゴミール派、更に南フランスのラングドック地方で、13世紀頃まで栄えたカタリ派などが存在したが、正統な教会から「マニ教的異端」として弾圧され、滅ぼされる。

 

*これまで述べてきたことから、次のような表の対について何を意味しているか考えてみてほしい。

知る

信じる

知識

信教

科学

宗教

原始仏教

大乗仏教

グノーシス主義宗教(マニ教

キリスト教イスラム

自力

他力

異端

正統