バベルの塔とグノーシス主義

 自然言語(natural language)とは日本語や英語、中国語やスペイン語のような、人間が生活する世界で使われ続けてきた言葉。私たちが言葉と言うときの典型である。それに対して人工言語(artificial language)は人間が意図的、人工的につくり出した人工的な言葉。通信やコンピューターの操作に使われる言葉はその人工言語の代表例だが、いずれの言葉も文法や語彙をもっていて、共通点がたくさんある。人間の歴史の中でもっぱら使われてきたのは自然言語の方で、それを巧みに操ることが人間の人間たる所以と考えられてきた。しかし、世界には昔から多数の異なる自然言語があり、その異なる言語間でのコミュニケーションは決して簡単なものではなかった。言葉を操るとは、同じ言葉によるコミュニケーションだけでなく、異なる言葉の間でのコミュニケーションも必要だった。それは他の自然言語から孤立した日本語を使う私たちなら実感できることである。「創世記」11章1-9節には興味深い物語が述べられている。

 

 「全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。」

 

 それでも人間はそのローカルな自然言語を使って世界について考え、表現し、言語を駆使することによって知識を獲得してきた。知識は知覚と言葉の協働によって人間のものとなった。知識を生み出す源泉の一つが自然言語だったのである。語彙を充実させ、言葉の能力を増強させることは誰もが思いつくこと。言葉を使って描写し、語り、説得することは魅力的で人間的な活動である。人間は言葉が言霊につながることを夢想するだけでなく、言葉が記号のシステムであることも察知し始める。言葉は表現のための道具、装置であり、言葉の構造は記号の組み合わせにあることに気づくことになる。こんなところが言葉についての一般的な話。

 なぜ複数の、それも互いにわかり合えない言葉が共存し、世界は混乱したままだったのか。人間が言葉を操ることに優れ、それが人間を他の動物と異なることを示すものだったにも関わらず、複数の異なる言葉をなぜ使わなければならなかったのか。バベルの塔の物語で誰も成程などとは思わないだろう。言葉こそ人間的なものなのに、複数のわかり合えない言葉があることは一体どうしてなのか。

 この問いを考えるために、次の例を取り上げよう。フランス人の有名な女性政治家、ルイーズ・ワイスの名をとった欧州議会の主要な建物が「ルイーズ・ワイスビルディング(Louise Weiss Building)」。このビルは1999年竣工で、ピーテル・ブリューゲルの絵画に出てくる未完成状態のバベルの塔を模したデザインになっている。建物壁の半分が窓になって外が見えるが、それは「透明性のある政治」、「まだ建設途中の壁」を表し、「これからつくり上げられていく欧州連合」という意味が込められていて、バベルの塔の欧州版となっている。ルイーズ・ワイスビルディングのコンセプトはEUのコンセプトそのもの。もしEUの建物がバベルの塔ならば、EUの建物は創世記によれば実現不可能な計画であり、神に背いたニムロデの建設ということになる。

 そこで登場するのがグノーシス主義で、それによれば、聖書における「善」と「悪」の規範は逆転し、倒立している。つまり、神が悪魔にされ、悪魔が神になっていて、その神がニムロデである。キリストが神なら、バベルの塔はニムロデという悪魔が建設したのであるが、グノーシス主義ではそれが逆転している。言語、民族、宗教、思想などを統一し、バベルの塔を建設し、人間が「偽りの神=悪魔」に代わって神の座に就き、「真の神=聖書の悪魔」より与えられた知恵によって世界を支配することが正しいとグノーシス主義は主張する。これは新世界秩序(New World OrderNWO)の考え方そのもので、神になった悪魔によってヨーロッパは統合されると解釈し、そのためにバベルの塔をつくるというのは悪乗り解釈に過ぎないのか。

 このグノーシス主義とは一体どんな考えなのか、簡単に確認しておこう。グノーシス主義では、「聖書の神=ヤハウェ」は「ヤルダバオート」と呼ばれる「偽の神=悪魔」である。逆に「聖書の悪魔=蛇」こそが、人類に「知恵」を授けた「真の神」。バベルの塔の建設者はニムロデで、彼もまた「偽の神=悪魔」に反逆し、バベルの塔を建設しようとしたことから、神に反逆して地に堕とされた「堕天使=悪魔」と同一視され、「真の神」とされるのである。それゆえ、聖書の神の言葉は「偽の神=悪魔」の言葉として、正反対に解釈することが正しいことになる。グノーシス主義では、聖書の「神」と「悪魔」の立場が入れ替わっている。それゆえ、「偽の神=悪魔=ヤルダバオート」が命じた「古き世界(時代)の秩序」を破壊し、「善」と「悪」の規範を逆転し、「新しき世界(時代)の秩序」を作り上げることが意味されている。

 グノーシス主義には「反宇宙的二元論」という世界観がある。「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想である。つまり、現在私たちが生きているこの世界を悪の宇宙と捉え、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと考える。グノーシスの神話では、原初の世界は、至高神の創造した充溢の世界である。だが、至高神の神性である知恵は、その持てる力を発揮しようとして、ヤルダバオートと呼ばれる狂った神を作る。ヤルダバオートは自らの出自を忘却しており、自らの他に神はないと思っている。グノーシスの神話ではこのヤルダバオートの作り出した世界こそが、私たちの生活している世界だと捉える。

 グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるからだと考える。客観的に世界を眺めるとき、この宇宙は「善の宇宙」ではなく「悪の宇宙」に他ならない。これがグノーシス主義の「反宇宙」論。宇宙が本来的に悪の充満する宇宙であって、既存の宗教に登場する神々がそれをつくり出したのであるから、その神々が善であるというのは誤りであるとグノーシス主義は考える。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」でしかない。だが、それが正しいなら、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在する。悪の世界はまた「物質」で構成されており、物質は悪である。また、物質でつくられた肉体も悪である。物質に対し、「霊」や「イデア」は真の存在であり、善である。善と悪、真の神と偽の神、また霊と身体、イデアと物質という互いに対立した「二元論」が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、これが「反宇宙論」と合体し、反宇宙的二元論が成立したのである。

 

 私たちの世界には悪が満ち満ちている。だから、その悪の世界をつくり出した神は悪魔でしかない。既存の宗教の神は、それゆえ、悪に過ぎなく、私たちは団結してバベルの塔をつくり、知恵によって善なる世界に変えなければならない。耳元でこのように囁かれたら、あなたは何と答えるだろうか。