謙信の「第一義」

 昨日の「上越妙高タウン情報」に「県立武道館に寄贈 第一義の額に入魂!」という記事(https://facebook.com/jcvfan.11ch)があります。それを読んだ上で次の文章を考えてみてください。

 

 春日山林泉寺上杉謙信のゆかりの寺。その山門の正面の扁額には「春日山(かすがさん)」、裏面の扁額には「第一義」という謙信直筆のレプリカが掲げられている。扁額は寺名や創立者の思いが書かれているのだが、謙信の信条としてよく引用、流用されるのが「第一義」。「春日山」を別の場所に掲げても林泉寺の宣伝にしかならず、自ずと「第一義」が使われるということになり、「第一義」こそが謙信の心を表明したものということになってきた。「第一義」とはfirst principle、最初の公理、基本原則のこと。

 そこで、「第一義」の由来を垣間見てみよう。5世紀にインドに生まれた達磨は、中国に初めて禅を伝えた。その彼が梁の武帝と問答した。深く仏教に帰依していた武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏法最高の真理、悟りの境地とはどんなものか)」と尋ねる(万仏流転、諸行無常が一応の答え)。達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして何の聖なるもの、ありがたいものはない)」と答える。それを聞いた武帝は「朕に対する者は誰ぞ」と言う。「そういう、わたしの目の前にいるお前さんは一体何者なのか」という訳である。達磨の答えは「不識(ふしき)(知らない)」だった。これが有名な問答のあらまし(『景徳傳燈録』第三巻、『碧巌録』第一則、『正法眼蔵』「行持」巻(下))。
 さて、問答で達磨が言いたかったことは何か。「禅とは経典にある言葉の教えではなく、心と心の触れ合いであり、釈迦の心を受け継ぐことにある。真実の教えは厳然として、いつでも、どこにでも在る。それは見せびらかすようなものではない」といったようなことではないのか。

 時代は下り、上杉謙信林泉寺の和尚益翁宗謙が上の「不識」という表現について問答を行う。和尚は、「達磨が「不識」といった意味は何か」と謙信に尋ねる。だが、謙信はこの難問に答えられず、それ以来、謙信は「不識」の意味を考え続け、あるときはたと気づき、直ちに和尚のもとに参じた(どう気づいたかは私にはわからない)。
 梁の武帝は仏教を庇護して自分の存在をアピールしたが、謙信に武帝のような権力者になってほしくない、民あっての為政者であることを肝に銘じて、謙虚な心を忘れてほしくない、と和尚は考えたのだった(和尚のこの考えが不識とどのように関連しているのか私にはやはりわからない)。その和尚の心を知った謙信は、林泉寺に山門を建立した際、「第一義」と大書して刻んだ大額を掲げたと伝えられている。

 

 さて、このような歴史的な物語から、あなたは「第一義」が謙信の何を表明したものだと考えますか。