神々と人々の絆(6)

三位一体

 ユダヤ教イスラム教が一神教であるようにキリスト教一神教なのですが、キリスト教は唯一の神だけを信じるという形態をとらないのです。それを端的に示すのが、父、子(イエス・キリスト)、聖霊によって表される三位一体です。「父と子と聖霊のみ名において(in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit)」というよく聞く謂い回しを思い出して下さい。さらに、イエス・キリストは、真の神であり、真の人であるという神人としての特別の地位を与えられています。神学では、人間の救済はイエス・キリストに従うことによってのみ可能だと考えます。三位一体論とキリスト論がキリスト教神学の核心なのですが、いずれも理屈ではわからず、キリスト教神学に内在する独特の考え方を体得しなければなりません。「神は存在するか」という哲学的な問い自体が成立せず、哲学的方法によって神を捉えることはできないというのが神学の基本的立場です。

 でも、これでは三位一体がこれまで述べてきた三神一体や住吉大神、さらには神仏習合などと何が異なるのか何もわかりません。そこで、三位一体なる概念がどのようなものか基本から考え直してみましょう。アウグスティヌスは次のような7つの言明で、三位一体の考えをまとめています。

1.父は神です。
2.子は神です。
3.聖霊は神です。
4.子は父ではありません。
5.子は聖霊ではありません。
6.聖霊は父ではありません。
7.唯一の神が存在します。

 

これら七つの文はすべて聖書に従った教えです。それらを用いることで、三位一体について簡単な理解を得られます。唯一の神には三つのペルソナがあります。神は大いなる奥義であり、それについて私たち人間が理解できることは、聖書を通して知らされているほんの僅かなことだけです。上の7つの言明は「三位一体の盾」と呼ばれる図式で表現されてきました。

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            (Wikipediaより)

 もう少し詳しく見てみましょう。「父、子、聖霊」が合わさって、一つの「神」ですが、「父」、「子」、「聖霊」は、それぞれ別のもの。「父、子、聖霊」は同列のもので、「父」、「子」、「聖霊」がそれぞれ三つの神ではありません。三つが合わさって、一つの「神」となり、その神は唯一。でも、「父である神」も「イエス」も「聖霊」も神性をもっています。ですから、神=「父である神」、神=「イエス」、神=「聖霊」であり、一つ一つが完全な神。でも、「父である神」=「イエス」=「聖霊」ではありません。つまり、三つの一つ一つが完全な神でも、神が三人いるのではなく、神は一つです。このように7つの言明と「三位一体の盾」の主張を言い換えることができますが、これでわかったと納得できる人はいないでしょう。納得できなければ、キリスト教一神教なのか否かだけでなく、三つのいずれを信じるのが適切なのかもわからないことになってしまいます。

 そこで、三位一体とは何であるかを確認し直してみましょう。神の三位一体の教えは、神の奥義に関する事柄です。人間の知性で完全に理解することは困難でも、明らかに聖書が教えていることであって、「信ずべき真理」であると言われてきました。
 三位一体とは、唯一の神の内に、父・子・聖霊の三位格の永遠の区別があり、これら三位の神は、存在と本質において一体とされます。基本的な信仰告白である「アタナシウス信条」には、次のように記されています。
 「われらは唯一の神を、三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分割することなく。」

 はじめに父、すなわち父なる神から見てみましょう。父は、天地万物の創造主であり、「第一原因」です。父は、子キリストの父であり、万物の父です。子イエスもこの父より生まれたのであり、聖霊もこの父より出たのです。
 次は子イエス・キリスト。子は、父なる神から生まれ出ました。キリストは、永遠において父なる神から生まれ出た、神の子です。私たちも、神を信じる者はみな「神の子」と呼ばれますが、私たち人間の場合は神の被造物です。これに対し、キリストは神の被造物ではなく、直接父なる神から生まれ出たのです。キリストは、万物の創造される以前に、神から生まれました。その意味で、キリストは「神のひとり子」とも呼ばれます。キリストは私たちが「神の子」と呼ばれるのとは違った意味で、「神の子」であり「神のひとり子」なのです。父なる神から出たキリストは、子なる神とも呼ばれます。人間の子が人間であるように、神の子キリストは、「(子なる)神」です。したがって、キリストは永遠から永遠にいたるまで存在しているのです。子なる神キリストは、永遠に父なる神と共にいます。では、父なる神と子なる神は二つの独立した神々なのかというと、そうではないのです。キリストは存在と本質において、父なる神と一体です。でも、新約聖書の原語であるギリシャ語をみると、これは単に、父なる神とキリストが目標や意思において一つになって行動する、という意味ではありません。「一つ」という言葉は、原語では「同一の本質」、「同質」という意味なのです。つまり、キリストは、父なる神と同じく神性を持ち、父なる神と存在を一つにしています。
 最後に、聖霊について見てみましょう。聖霊は、「神の霊」とも「イエスの霊」とも呼ばれます。聖霊は、父なる神から子キリストを通して信者に注がれた神の霊です。聖霊は、父なる神から出た神の霊であって、子キリストを通して信者に注がれました。聖霊は、父と子から発します。子キリストは、十字架の死と、復活を経たから、聖霊がキリストという一種の「フィルター」を通して注がれることによって、信者はその聖霊を通し、キリストの十字架の死と復活の力にあずかることができるのです。キリストは今は天にいますが、キリストの十字架死と復活の出来事と同じことが、聖霊によって信者の魂にも起こります。私たちは聖霊によって、古い自分が死に、「神の子」として新しい者に生まれ変わります。聖霊は、父なる神、およびキリストから出た霊です。したがって、聖霊は神性を有するのです。聖霊は、単なる「エネルギー」とか「力」ではなく、人格をもっています。

 このように、唯一の神の内に父・子・聖霊の三つの人格(神格)があります。人間個人に人格が三つあったら、多重人格で大変ですが、三位一体の神の人格は完全に統一されています。父なる神と子の意志が違ったり、子と聖霊の意志が違ったりすることはありません。意識の上では互いに独立しているものの、意志的には子は父に従い、聖霊は父と子に従い、神の統一性、唯一性が保たれています。聖書の中に、三位一体について直接に書いてある箇所はありません。新約聖書には、

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…」(マタイ28:19)

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが…」(第2コリント13:13)

といった記述は見られるのですが、これら三者の関係は明確ではありません。三位一体の教義は、キリスト者の間で長い年月の激しい論争を経て成立してきたものです。

 旧約聖書の中では、神は自らを唯一の神であり、自分の他に神はないと繰り返し語っています。ところが、イエスが十字架にかけられて死んだ後、「イエスは神だった」という教えが生まれます。また、新約聖書には、イエスが神を父と呼んだことや聖霊に関する記述も見られ、それらを矛盾なく説明する必要が出てきました。

 父、子、聖霊に関しては、さまざまな説明が可能です。伝統的なキリスト教においては、父と子と聖霊は「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」であるとみなす「内在的三位一体」論を教義として採択しています。しかし、「父のみが神であり、子や聖霊は神ではない」といった解釈も可能です。今日、エホバの証人ものみの塔聖書冊子協会)などはこの立場を取っています。また、「父、子、聖霊の三つは全く別個の存在であるが、三者は目的を同じくしている(三位同位)」とすることもできます。モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)はこの立場を取っています。


 三位一体の教義が確立されるまでは、さまざまな解釈が出され、互いに競い合っていました。313年のミラノ勅令によってキリスト教信仰を公認したコンスタンティヌス帝は、教義の分裂がローマ帝国の混乱を招くことを懸念して、教義を統一する必要があると考えました。彼は、325年にニケーア公会議を招集して、イエスを「神と同質」とみなすアタナシウス派を正統とし、イエスを「神に最も近い人間(神とは異質)」とするアリウス派を異端としました。

 でも、論争はこれで決着したわけではなく、正統派の同質説とアリウス派の分派が唱えた同類説(「生まれざる父なる神と生まれし子なる神とは、同類だが、同質ではない」とする説)との間では、長い間論争が続いていました。テオドシウス帝は、同質説と同類説との論争に終止符を打つため、381年にコンスタンティノポリス公会議を招集して、「作られざる、同質なる、ともに永遠なる三位一体」という教義を打ち出しました。

 ところが、これ以降も論争は続き、「子なる神として神そのものであるキリストが、一体どのように同時に人間であり得るか」という点が問題となったのです。まず、アポリナリウス(315頃~390頃)が「魂の代りにロゴスが入った人間がキリストである」と主張しましたが、「それではキリストは完全な人間とはいえないではないか」という反論が出て、後に異端とされました。このアポリナリウスの説に反対したのは、ネストリウス(382頃~451頃)でした。彼は、神性と人性とは混同するものではなく、共存しているのだと説きました。また、その立場からマリアを「神の母」とすることに反対し、「キリストの母」と呼ぶべきだと唱えました。このネストリウスの説に反対したのは、アレクサンドリアのキュリウス(?~444)でした。「ネストリウスの立場では、キリストに二つの人格があることになってしまい、二人のキリストを認めることになる」と彼は批判しました。

 論争は延々と続き、431年のエフェソス公会議においてネストリウス派は異端とされました。さらに、451年のカルケドン公会議では、「イエスには人性が消えて神性のみがある」とするエウテュケスの神性単性説が異端として退けられ、「キリストのペルソナ(位格)は一つであり、さらに、神性と人性とを完全に備えつつ、両者は混同していない」ことが確認されました。

 

 このような説明で三位一体が何を意味するかわかったという人はまずいないでしょう。むしろ、ますますわからなくなり、それがキリスト教の根幹にあることに素直に驚くべきなのです。